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この冬、若島津はいまだかつてないほどに身体を虐め貫かれていた。
若島津のチームは天皇杯を準々決勝で敗退してしまい、すでにオフ期間に入っていた。
そんな時、かつての恩師であり現在五輪代表の監督でもある吉良の元、自主トレと称して非公式の合宿に呼び集められたのだ。
メンバーは馴染みの約10名。強制力はないから断ったヤツもいるらしい。
実を言えば、若島津も断ってしまいたかった。
夏の終わりにかなりの強行日程で訪れた日向との逢瀬から、ろくに電話もしないまま数ヶ月が過ぎていた。
飛行機のチケットを手配しようとカレンダーの数字を眺めていた矢先、沖縄在住の吉良監督から誘いの電話が鳴った。
日向の顔が浮かんで一瞬逃げ腰になったが、今の自分の難しいポジションを思うと出ないわけにはいかない気がした。
GKとFWのダブルポジション‥‥しかも今はFWの方がメインだ。
いくらサッカーを始めた当初はFW志向だったとはいえ、それは過去のこと。
日向と出会って自分の天分に気付いてからは、エンドを守ることに専念しつづけてきた。日向が最も必要としているポジションに身を置くことで、求められる満足感を無意識に感じていたのかもしれない。
そんな些細なこだわりも、この五輪代表に選ばれてからは考える余地すらなくなってしまった。
長年GK専門のコーチの元でトレーニングを重ねてきた若島津にとって、フィールダーの練習メニューは別物だった。
プロ選手としての土台は出来上がっていても、積み上げていくものは全く違う二つの塔である。
したがって代表入りしてからのこの半年余り、若島津は他のメンバーの1.5倍の練習メニューをこなさなくてはならなかったのだ。
代表戦のないリーグ期間中も、FW勘が鈍らないようプライベートで新しいトレーナーを一人付けた。チームのオフ日にメニューをこなす為、休みは殆どトレーニングに費やされた。
これまで3日も休みがあれば無理をしてもイタリアに飛んでいたのに、この秋はそんな余裕もなく過ぎ去ってしまった。
全く、吉良監督はとんでもない重荷を背負わせてくれたものだ。
寒風吹きすさぶ本土とは10度以上の温度差に汗ばみながら、若島津とその他有志のメンバーは黙々とトレーニングに励んでいた。
「おまえが参加するとは思わなかったな」
隣には同じ速度で砂浜をランニングする反町がいた。
「それはこっちのセリフ。‥‥暫く会ってないんだろ、いいの?」
「いいも悪いも‥って誰の話してんの」
「とぼけんなって」
はっきりとバラしてる訳ではないが、自分はもちろん他人の色恋沙汰にもやけに勘の良い反町は、この親友達の密かな恋に薄々気付いていた。
男同士の恋愛を揶揄するでもなく、そっと見守り続けている一人だ。時には背中を押したり、さりげない助言をしたり、道ならぬ恋に苦しんでいた二人の思春期を蔭ながら支えていたのは反町だった。
「ったく‥おまえにはかなわねえな」
波の音にかき消され会話が漏れないことをいいことに、若島津は観念した。
「会いたいけどさ、しょうがないだろ。今の状況じゃ」
「まあね。しかし監督も何考えてんだか‥どう見たってキーパーの中じゃおまえのコンディションが一番じゃん?わざわざ守りを薄くしてどうするよ」
「こっちは選ばれた立場だからな。言われたことを黙ってやるしかない。それが嫌なら辞退という道もあるわけだから」
「敢えてそっちを選ばなかったのは、大人になったってことかね」
ちゃかすように反町は言った。
「全然。たまに逃げ出したくなる。‥発作的に、飛行機乗りたくなったりとか」
「可愛いなあ、おまえ。日向さんが惚れるの解る気がする」
「からかうなよ」
基礎トレを済ませた後は、5対5のミニゲームでとことん弱点を指摘され、何度も同じシーンをシミュレーションさせられた。
午後は吉良サッカースクールの青年部を相手にセットプレイの練習。精密なコーナーキックを徹底的に追求され、あらゆる角度からのフリーキックを何十発も打たされた。
4時になり、フィールダー組の今日のメニューは終わった。
それから2時間、若島津のキーパーコーチとの練習が続く。どんなにタフが自慢の若島津でも、体力的にはかなり限界だった。
「監督は何を考えてるんだろう」
現在、ケガの若林に代わってGKを勤めている森崎も合宿に参加していた。
「本来、僕の方が3番目のはずなのに‥‥。リーグ見てても、君の方が調子いいってことは皆知ってる。やりにくくてしょうがないよ」
「まあ、選ばれちまったもんは受け入れるしかないだろ。おまえのその自信のなさ、絶対試合で見せるなよ」
「‥‥努力するよ」
やりにくいのは若島津も同じだった。自分より優れたFWなら他にも沢山いる。もちろん、予選では召集されていなかった海外組は桁違いだ。
Jリーグではチームのトップで活躍する点取り屋たちを差し置いて、専門外の自分がスタメンでFWに立つのはかなり勇気がいる。居心地の悪さは否定できない。
それでも背番号を与えられ、得点することを要求されればやるしかないのだ。
恋人に会いたい、なんて弱音を吐いてはいられないのだ。
一週間のスケジュールもそろそろ終盤に差し掛かり、貸しきられた小さな合宿所にも多少ホッとしたムードが流れていた。
「年内には帰してくれるんだから、監督も鬼じゃないってことだね」
「正月くらいあの人も家でのんびり酒が飲みたいんじゃない?」
「吉良監督は禁酒中ですよ。皆の前で誓ったんですから!」
「タケシ、そないな一本気ばかし言うてると秘蔵っ子解除されるで。おまえもう煙たい!て」
「がはは!」
「ひどい!吉良監督はああみえて真面目な人なんです、ねえ若島津さん!‥‥若島津さん?」
反応を求めて振り向いた先には、力尽きたようにソファーに倒れこんだ若島津が人目もはばからず寝息を立てていた。
「あ〜あ‥‥なんかやつれたな」
「若島津のこんな姿、珍しくね?」
「正直さ、若島津ってキーパーの方が似合ってるって思わない?」
「‥‥うん、誰もがそう思ってるよ」
反町が若島津に囁くように言った。
「部屋に運んでやらないと。なあ、誰か一緒に‥‥」
そう言いかけた時だった。背後から黒くて野太い腕がにゅっと伸びてきて、若島津の頬に触れた。
「ひ‥‥!?」
「静かに。俺が運ぶ」
「えっ‥でも一人じゃ無理‥」
デカい男は手馴れたように、力の抜けた若島津の両腕を自分の首の後ろで交差させると、腰に手を回して守備よく抱え上げた。お姫様抱っことはいかないが、若島津のような体格の男がこんな体勢で抱きかかえられる姿は、なぜかその場にいた者達を赤面させた。
「部屋は?」
「3階の‥301」
「一人部屋か?」
「あ‥俺が一緒だけど‥‥荷物取りにいくから、アンタ使って」
「おう、サンキュ」
ミシミシと床を鳴らしながら、小山のような二人の影は階段へと消えていった。
「日向さん、入るね」
反町が遠慮がちにドアをノックした。
「こいつ、軽くなった。練習、そんなにキツイのか?」
「んー‥まあね。本人は納得してやってるから、なにも言わないけど」
「そうか」
愛しげに若島津の額の髪を梳く日向の横顔は、なんだか見てはいけないもののような気がして反町は目を逸らした。
「来るって連絡入れた?」
「いや」
「会いたがってたよ‥‥電話くらい」
「そうだな」
「ったく。あんたらって、相変わらず」
「部屋、いいのか?」
「どーぞどーぞ。ただ、壁は薄いから気をつけて」
「‥どこまで知ってんだ、おまえ」
「さあね、どこまでだろ」
「‥‥その、俺はだな‥」
「もう、今更だから何も言わなくていい。それよりさ」
「‥‥」
「大事にしてあげなよ。強そうでも、案外脆いから」
「わかってる‥」
「じゃあ俺は荷物持って消えます。寝かせてあげてよね」
ドアが静かに閉まると、若島津の寝息だけが冷えた部屋の中を伝った。
「若島津‥‥ただいま」
横たわる若島津に布団をかけると、日向はコートを着たままの姿で隣に横になった。
いったいどれくらいそうしていたのだろう。
目が覚めた若島津は一瞬、今が昼か夜かさえも判らなかった。それくらい熟睡しきっていたのだ。
起き上がろうとして、横で布団を押さえ込むようにうずくまる黒い物体に全身が跳ね上がった。見覚えのある黒いコート、忘れもしない。
「日向さん‥!」
「んー‥起きたか」
うずくまったまま、顔も上げずに呟く。若島津の寝顔を見ているうちに、日向もすっかり眠り込んでしまったのだ。
「アンタ‥‥なんでここに?」
ようやくのっそりと体を起こすと、日向はベッドの上に胡坐をかいた。
「俺が一番シンドイ時、おまえはいつも傍にいてくれた」
「‥‥‥」
「ガキの頃から、ずっとだ」
「‥‥‥」
「あっちに行ってからも、たとえ数時間しか居られなくても、来てくれた」
「それは、単なる俺のワガママで‥」
「いや、呼んだんだ。俺が呼んだから、おまえは来た」
若島津はまだ半分眠った頭で、日向の発する静かな低音に耳を傾けた。
今だ夢か現実かもあやふやで、掴みどころのない説法でも聞かされてる気分だった。
「そして今は、おまえが俺を呼んだからここにいる」
「俺が、呼んだ‥?‥アンタを?」
「ああ」
「‥うん、そうかも。呼んだ、かもしれない」
「若島津‥‥」
「あ‥会いたかった」
なぜか涙が溢れてきた。
弱音は男の恥と教えられて育った若島津は、これまで感情をむき出しにして泣いたことなど一度もなかった。
それが一旦日向の腕の中に包まれると、溜め込んできたものが一気に溢れ出し、嗚咽こそは漏らさなかったが縋りつくように泣き崩れたのだった。
「おまえ、相当弱ってんな」
「もう少し、頑丈にできてるって自負してたんだけど‥‥」
「‥ちょっと待ってろ」
そう言って若島津を少し離すと、手早くコートを脱ぎだした。壁に備え付けのドレッサーめがけて軽く放ると、運良く椅子の背もたれに引っかかった。
コートの下はまるでジョギングから帰った足でそのまま飛行機に乗ったかのような、とても14時間も時差のある異国からやってきたとは思えないいでたちだった。
日向は踏んずけていた羽毛布団をもそもそ剥ぐと、若島津の横に滑り込んだ。
「ほら続き。来いよ」
腕を広げて若島津を抱え込む。
あまりにもラフな日向の姿に面食らったせいか、あんなにとめどなく流れていた涙はいつの間にか止まっていた。
そして懐かしい日向の匂いに、不安定だった気持ちがすとんと納まった気がした。
自分を抱きしめながら、足で靴下を脱ぐ日向のガサツさにも笑いが漏れた。
下半身が一瞬触れた時、日向の一部が変化していることに気付いてしまった。
「日向さん‥ごめん。今は俺‥できないかも。体がグダグダで」
バツが悪そうに笑って日向は言った。
「気にするな。コイツは条件反射だ。おまえの匂い嗅いだだけで反応しやがる」
「もうちょっと眠ったら、大丈夫だから‥」
「無理すんな。明日も練習あるんだろ」
「ん‥でも、したいな。久しぶり‥だし‥‥」
「‥‥‥」
再び、若島津はスウスウと寝息をたてて眠ってしまった。
「あー‥肝心なこと言いそびれちまった」
時計を見るとデジタルが12月29日を表示していた。
若島津の22歳の誕生日だ。
「おめでとな‥‥」
次の日は、日向も吉良監督の許しを得て五輪メンバーと共に汗を流した。
しかし非公式だからと安心していたら、地元のメディアから情報が漏れたのか最終日にはちらほらと知った顔の記者たちが詰めかけ始め、日向は慌てて身を隠すハメになってしまった。
ささやかな打ち上げを終え、来年の本戦に向けての豊富を口々に語りながら、黄金世代の幼馴染達はそれぞれのホームタウンへと帰っていった。
若島津は名古屋へは帰らず、そのまま埼玉の実家に戻る予定でいたから羽田行きのチケットを手にしていた。
一方日向は行き当たりバッタリ、年末の長期休暇で混み合った満席だらけの飛行機を、キャンセル待ちで飛び乗ったという計画性ゼロの那覇入りだったため、当然帰りのチケットもキャンセル待ちを強いられていた。永久に巡ってこないのではないかと思える果てしない順番待ちの数に、若島津はため息をついた。
「おまえ、先に帰るか?」
「そんなこと、できるわけないだろ」
「だったら‥」
日向がにやりと笑った。
「もう一泊すっか」
「えっ?無理だろ、この時期に飛び込みなんて」
言い終わらないうちに日向が携帯を取り出し、二押し程の操作をした。
「もしもし、どーも。今那覇なんだけど、どこか泊まれるところ、ありますかね」
「‥‥‥」
「はい、二人。ツインでもダブルでも。いや、ダブルの方がいいかな〜。あっ、そうスか。ありがとうごさいます。恩に着ます」
「誰‥?まさか」
「部屋取れた。行こう」
「ええっ、マジで??」
「今のうちに明日の便に変更しとこうぜ。レンタカー借りるか?」
日向という男には、計画性はないが大胆な決断力だけは人並み以上だ。それに今までも散々振り回されてきた若島津だが、小さなことに拘って悩んでいる自分がバカバカしく思えてくるから不思議だ。
「ちょっと遅れたけどおまえに誕生祝い、だって。キョウコさんが」
「やっぱり小泉さん‥って、え?俺と一緒って知って?あ、アンタさっきダブルって‥それってヤバく‥‥」
「ああ、あの人知ってっから気にすんな」
「!!」
「せっかく会えたのにずっとお預けだったからな。嬉しすぎて事故らないよう気をつけねえと」
日向の頭の中はすっかり南の島で束の間のバカンス、二人きりのドライブのことで一杯らしい。
いったい二人の秘密はどこまで広がっているのか‥‥若島津は頭を抱えたくなった。
だが少なくとも今のところ、自分達は理解され支えられている。この先誰しもがというわけにはいかなくても、とりあえず今は幸せなのかもしれない。与えられたポジションを着実に歩んでいければ、それでいい。
サッカーのポジションも、人生のポジションも。
それが日向の傍であれば、なお幸せだ。
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