妄想日記 16

 確かにヤツは俺のダチで、意識もせず気が付けばいつもそばにいて、空気みたいな、家族みたいな。一緒にいるのがあたりまえ過ぎて、だから、いつか離れる日が来るなんて、考えたことすらもなかった。
俺はこの春、卒業と同時にプロになる。実質すでに契約も済ませ、何度かチームの練習にも参加したりしているが、特待生として学校に籍を置く以上、卒業証書をもらう最後の日まではきっちりと東邦学園の生徒として義理を果たさなければならないと考えていた。

 2月の始めに、チームの合宿で二週間ほど寮を留守にした。
学年末テストも終わり、3年生は受験のため卒業式までは自由登校といううってつけのスケジュールである。俺は意気揚々とプロ生活の第一歩を踏み出すべく合宿の地へと赴いた。
寮まで迎えに来てくれた小泉さんの車に乗り込む俺を、ヤツはいつものように穏やかな笑顔で見送りに出てくれた。

「目ツキと言葉遣いに気をつけて。」

 冗談っぽい口調で小言を言う若島津を、ガキじゃあるめえしと軽くいなすとドアを閉めた。その瞬間俺の頭は目的地へと切り替わり、後ろを振り向くことはなかった。

 二週間後。
全ての行程を終え、俺にしては珍しく、なんのトラブルもなく充実した気分で寮へと戻ってくることができた。
とりあえずは若島津の顔が見たい。俺はヤツを探した。
数日なり単独で寮を空けた時は、最初にまず若島津を探すのが習慣だった。アイツに「おかえり」を言われないと帰ってきた気がしないのである。
 しかし玄関を入ってから部屋にたどり着いても、若島津の姿はどこにも見当たらなかった。そもそも3年は自由登校であるため、実家に戻り受験にそなえたり、プロ入団が決まったヤツは合宿参加していたりで殆どが留守である。当然下級生は授業があるため学校だ。誰かに尋ねようにも寮の中はガランとしていて、人っ子一人いやしない。
二週間後の若島津の予定なんか気にもせず、聞いてもいなかった。いるのがあたりまえだと思っていた。
そんな自分に呆れながら手持ち無沙汰に寮内をうろついていると、掃除中の寮母のおばさんと遭遇した。そこでようやく長旅からの帰還への労いと歓迎を受け、いつもと違う順序に変な心持ちがした。
たかが友人の所在をこんなにも気にする自分を我ながら滑稽に思ったが、俺はどうしても尋ねずにはいられなかった。

「健君なら、合宿に出かけたわよ。一週間くらい前かしら。」

 俺は、その言葉の意味を理解するのに相当な秒数を要した。

「合宿って、どこの?」
「名古屋のチームですって。色々迷って、ようやく決めたみたい。決めたとたんに合宿だなんて、慌ただしくって大変。」

 そう言っておばさんは掃除機のスイッチを再び入れると、でかい吸引音を鳴らしながらジグザグと忙しく離れていった。
取り残された俺の頭の中は、騒音に掻き消されたかのような、まるでざらざらとした砂嵐のようだった。

 

 若島津は俺の一部でもなければ付属品でもない。そんなことは当然で分かりきっている。けれどいつしか、アイツが側にいることはあたり前で、俺がどこへ行こうとも、なにも言わずとも必ず後を追って来るもんだと信じ込んでしまっていた。俺は今更ながら自分の愚かしさに腹が立った。
若島津は俺を追っていたわけじゃない。たまたま俺の目標とアイツの目標が合致していたがゆえ、歩いてきた道が重なっていただけなのだ。そして若島津は、この先自分の進むべき道を決め、一人で歩き始めた。ただそれだけのことなのだ。
これまでの自分の振る舞いや考えをひとつひとつ思い起こして、その傲慢さや身勝手さに、恥ずかしさを通り越し怒りすら覚えた。
若島津が離れていっても仕方がない。そう思えた。
俺は自分のことはアイツに聞かれるまま、よく話をした。若島津は聞き上手で返し上手だった。気分よく将来の目標を長々と語ったりもした。その時、なんで俺は「おまえはどうなんだ」と聞かなかったのだろう。アイツの夢とか目標とか、なぜ聞こうとしなかったのだろうか。
 もしかすると俺は聞くのが怖かったのかもしれない。アイツの答えが俺の目指そうとする道とは全く別の道だったなら、俺は素直に頑張れと言えただろうか。

 その夜、俺は一人の部屋でいろんなことを考え、それらは全て後悔と不安へと繋がった。最後に見送られた時の若島津の表情を思い出そうとするが思い出せない。なぜあの時振り向かなかったのだろう。
アイツが俺に見せる顔はいつも穏やかで、いつも静かに微笑んでいた。だから俺が視線を向けない時も、そうやって笑っているのだろうと勝手に思い込んでいた。
なんでもっと。なんで。俺は一晩中、若島津のことばかりを考えていた。なんでこんなに気になるのか、そしてなんで今まで無頓着でいられたのか。
 そうやって自問を繰り返す一方で、たかが友人の一人に過剰に執着している自分がバカバカしくも思えてくる。元来俺はそんな性質の人間ではない。人に気持ちを揺さぶられたり、作用したりなどしないタチのはずなのだ。
他人にどう思われようと、俺は俺の思うままに突き進む。そうやってこれまで生きてきた。多分これからもその性分は変わらないつもりだ。
なのに今の自分はなんなのだろう。若島津の表情ひとつ思い出せず、気になり、後悔と不安に苛まれている。本当は俺に不満を抱いていたのではないか。卒業と同時、袂を分かつ日を心待ちにしているのではないか。ひょっともすると、合宿に行ったっきり戻ってくるつもりもないかもしれない。置き去りにされたアイツの持ち物が、ここでの思い出と共に棄てられてゆくのではないか。
 かつて経験のないネガティブな思考に脳みそと心臓をかわるがわる弄ぶ。自分ではどうにもコントロールできない感情が、その夜の俺を支配し続けた。

 

 卒業を前に、俺は身の回りの整理や引越しの荷造りに没頭した。教科書やノート、プリント類、授業で制作したものなどまとめてみると意外と嵩張るものだ。必要最低限の衣類などはチームの寮に持ち込むとして、その他のものはただでさえ狭い実家に送り付けるわけにもいかず、やむなく処分を余儀なくされた。
ゴミの山に積まれた教科書をなんとはなしにパラパラ捲るってみる。走り書きの翻訳文やら数式、試験に出そうなポイント、目についたそれらは全て若島津の文字だった。勉強には今ひとつやる気の起こらない俺のために、落第されては困るとしょっちゅう面倒を見てくれた。少し右上がりで几帳面さを思わせるアイツの字。ゴミ袋行きのはずの教科書が急に愛しく思え、棄てるのが惜しくなる。
順調だった仕分け作業が、柄にもない感傷に邪魔をされもたつき始めた。
 気分を変えるため、談話室にでも降りようとドアを開けると、目の前に若島津が立っていた。

「た、ただいま…」

 若島津は今まさにドアノブに手を掛けようと腕を伸ばしたところだった。

「お、おう…おかえり」

 いつもと変わらないやり取りだった。突然、少なくとも俺にとっては突然姿を消した若島津に戸惑い、怒りにも似た感情を覚え、この数日は鬱々と病んだ日々を送っていたというのに、若島津の顔を見た途端、不思議と胸のあたりがスッとした。我ながら、自分のバカみたいな単純さが恥ずかしくなる。
俺は黙ってヤツを部屋へと促した。荷物がひっくり返った状態を見て、若島津は面食らったようだった。
 そして一呼吸おいた後、申し訳なさそうな面持ちで切り出した。

「…ごめん。アンタの留守に何の相談もなく色々決めちまって…」
「…別に謝るこっちゃねえだろ。おまえの人生だし、俺に伺いを立てる筋合いもねえしよ」

自分にこんな綺麗ごとが言えるとは驚いた。この数日、俺がどれほどうじうじと女々しかったか。

「俺、名古屋に行くことに決めたから…」
「…ああ、聞いた。」
「…ちゃんと自分の口から報告したかったな。」
「迷ってたんだろ、色々。他、どこ来てたんだ?」
「二択、だったんだけど…」

 若島津が選ばなかったチーム、それは俺が入団を決めたところだった。一瞬俺は耳を疑った。やっぱり俺は心の片隅で、若島津は無条件に自分の後ろをついて来てくれるもんだと思い上がっていたのだ。卒業後の行く道が分かれてしまうのは、「俺」を選ぶ選択肢がなかったからだと。
ところが違った。選択肢はあった。しかし若島津は選ばなかったのだ。
俺を動揺させたのはその事実というよりも、泣きそうな程にショックを受けている今の自分の有様であった。

 

 それから卒業式までの10日間は実に空虚なものだった。
この6年間の数々の実績や、伝説のような出来事が幻であったかのように、波乱に満ちた学生時代を締めくくるにはあまりにも地味すぎる日々だった。
ただ起きて食って寝て、合間にジョギングや荷物の整理をする程度の活動量。体がなまって仕方がないので部活の時間になると無理やり後輩達の練習に加えてもらい、グラウンドを無心に駆け回った。
 実のところ、そうやって体を動かしでもしていないと余計なことを考えてしまい、気が滅入ってしまうのだ。
そんな俺の心を知る由もない若島津は、ジャージを羽織って出掛けようとすると決まって「俺も付き合います」と言ってついて来た。以前の俺なら、それが当然のことと受け止めていたに違いない。なんの疑いもなく若島津を隣に従えいい気でいられたのだろう。
だが今はなぜか苦しい。若島津が側にいることを息苦しく感じてしまう。いつもと変わらない笑顔でさりげない気遣いを見せるアイツの厚意に、手放しで甘えることができない。
 そのくせ、もうじき別れがやってくるのだと思うと離れ難い気持ちが押し寄せ、訳もなく引き寄せたい衝動にかられる。
家族同然だからか。大事な友人だからか。単純明快な答えを得られないまま、俺は卒業までの貴重な時間を消化試合のように過ごすしかなかった。

 その日は旅立ちに相応しい晴れやかな空模様だった。
式典を終え、卒業証書を手に寮へ向かう。謝恩会などというものが催されるらしいが、俺と若島津は参加せずに同窓生達と別れることになった。
なにしろ俺達にはあまり時間がなかった。数日後に控えたリーグ戦開幕のため、一刻も早くチームに合流しなければならなかった。若島津は名古屋へ、俺は茨城へ。
荷物はすでに運び出され、部屋には手持ちのバッグが一つずつ残されただけだった。備え付けの机と、シーツの剥がされたベッドが2台。殺風景な部屋は、3月とはいえまだ冬の名残で気温は低く、吐息が霞みそうなほどひんやりと感じた。
 先に若島津の出発が迫っていた。新横浜まで小泉さんが車で送ってくれることになっている。約束の時間まで30分と残されてはいなかった。

「…日向さん。」

 若島津が畏まって、俺に向き合った。

「6年間、お世話になりました。ありがとうございました…。」

深々と頭を下げる。

「俺、あんたと出会わなかったらきっと、全く別の人生を歩んでたと思う。本当に、感謝してます。」

 若島津はひとつひとつ言葉を選ぶように語った。耳に心地いい軽やかな声。この声に何度励まされ、叱咤され、勇気づけられたか。
そんなことを思うと、俺はまた胸のあたりが息苦しくなり始めた。

 


 若島津から述べられる礼の言葉が今生の別れの挨拶にも取れ、俺は思わずヤツの腕を掴んでいた。

「日向さん…?」
「………」

 感謝しなければならないのは俺の方だ。若島津がいなかったら、それこそ数々の栄光も実績も得られなかったかもしれない。充実した学生生活を送れたかも分からない。若島津の存在はそれくらい俺にとって大きかった。
そのことを今伝えるべきだというのは分かっているのに、うまく言葉が見つからない。新たな世界への出発を祝うのに、どんな顔をすればいいのかも分からなかった。

「…やっぱり日向さん、怒ってるんだよね…?」
「…え?」
「俺があんたと同じチームを選ばなかったこと。」

 この数日間のモヤモヤの原因をズバリ言い当てられ、全身がカッと熱くなった。

「怒っちゃいねえ。」
「だけど…」
「怒っちゃいねえけど…」

反論すればするほど自分が小さな男に思えて情けなかった。しかしこのまま別れてしまえば、この先ずっと後悔と疑問に付き纏われ、気分良く前へ進めないような気がした。

「…なんでか理由が聞きたい。名古屋を選んだ理由…いや、鹿島を選ばなかった理由を聞かせてくれ。」

質問をぶつけた瞬間、若島津は明らかに動揺した。掴んだ腕を引こうとしたが、俺は力を緩めなかった。そしてどんな答えでも受け入れると覚悟を決めた。

「それは…」

 恐らく若島津は、その質問の答えを用意していたのだろう。俺を傷付けないための、当たり障りのない答えを。
軽く息を吸って話し出そうとしたその時、俺はそれを遮った。

「もう、俺の面倒を見るのはたくさんか。」
「そ、そんなんじゃ…」
「迷惑かけたもんな、おまえには。これまで色々、本当に世話になった。正直…愛想つかされても仕方ねえって自覚もある。…すまなかったな。」
「だからそんなんじゃ…」

 俺はいつからこんな嫌な奴に成り下がったのか。若島津の本音を知りたいばかりに卑屈になり、結果ヤツを困惑させている。
俺には若島津の腕を掴んで引き止める資格なんかない。
ただの未練だ。若島津を手放したくない、ただそれだけなのだ。
己の未熟さに辟易し、手の力が抜けた。

「苦しいんだ…」

若島津が小さな声で呟いた。

「ここを出て新しい世界に入ったら、俺達の視野も広がって、色んなことを吸収して…あんたはきっと変わっていく。」
「……」
「だけど俺は…あんたの側にいればそのうち…成長して変わっていくあんたを、いつか恨む日がくる。受け入れられなくて、苦しくなって、嫉妬する。…そうなることが分かってるのに…だから俺は…」

 若島津は怒っているような泣いているような、複雑な表情だった。語りかける言葉も俺に対してというより、独り言のように自分に言って聞かせてるふうに見えた。

「俺は変わらねえよ。」
「変わるに決まってる!…だって…変わっていかなきゃいけないだろ…?」
「俺は俺だ!」
「もう決めたんだから!」
「若…っ」
「俺はあんたを卒業するって決めたんだから…!」
「わっかんねえよ!全然納得できねえ!」

 一方的に別れを切り付けられ、俺は一気に感情が昂ぶった。なんで今まで通りじゃいけないのか、全く理解ができない。側にいたいのに、ずっと一緒にいたいのに。
思い通りにならない若島津が歯痒くて憎らしい。俺は乱暴に押さえ付けたい衝動を必死で堪えた。
その時、窓の外からクラクションの音がした。

「行かなきゃ…」

 若島津のホッとしたような顔が憎らしかった。

「じゃあよ…最後にひとつだけ、俺のわがままを聞いてくれ。」
「なにを…?」
「…キス、させろ。」

 若島津の反応を見る間もなく、俺は力任せに腕を引き寄せると乱暴に唇を押し付けた。
若島津の熱を感じながら、そうだったのかと、俺はようやく自分の感情を理解した。
再びクラクションが鳴る。
呆然とする若島津を解放すると、足元に転がっていたヤツの荷物を拾い上げ腹に押し付けた。
 そのままドアを開け、追い立てるように廊下へと押し出した。

「…じゃあな。」

若島津の言葉を待たず、容赦のない勢いでドアを閉めた。

「若島津…」

ドアにもたれたままズルズルとしゃがみ込んだ。しばらくして、若島津の足音が離れて行くのを聞いた。馬鹿でどうしようもない自分に呆れうなだれて、気が付けば俺は泣いていた。

 

 近頃、ガキの頃の夢をよく見る。
毎日が一杯一杯で、ゼンマイが切れる寸前まで気を張って生きていた。そんな苦しい時代の夢なのだが、何故か心は満たされていた。姿を現さなくても、いつも傍に若島津の存在を感じていた。リアルに声を聞いた夢もあった。現実にはひどく貧乏で、いつも腹を空かせていて惨めなことばかりだったが、夢の中の俺は決して不幸ではなく温かい空気に包まれていた。
あの頃から俺は、若島津の存在に支えられていたのだろう。無意識のうちに。暗闇の中に浮かぶ灯のように。
 夢を見るようになってから、より一層の喪失感に襲われた。
若島津との別れにこれほどダメージを受けるとは正直思ってもみなかった。自分が赤の他人にここまで執着するとも。
 6年間、四六時中一緒にいて若島津とは家族同然のような気でいた。しかし進路が分かれ、会えなくなってしまってから俺達は他人だったのだと今更ながら思い知った。家族なら遠く離れ、会えなくても絆がある。元気でいるなら顔を見なくても安心できる。だが若島津は他人なのだ。一度繋がりが途絶えてしまえば会う理由もきっかけも、どんなに考えを巡らせても思い付かない。

 ただ一つ理由があるなら、「好きだから会いたい」。
 最終的に行き着く答えは、とても面と向かって言えることではなかった。一生言わないままで終えるなら、その方がいい。
 あの日、卒業式の、あの時、あいつにキスなんかしなければ。そしたら今も幼なじみとして、サッカー仲間として、会いに行く理由なんていくらでも付けられたのだ。感情を抑え切れず、勢いのままに起こしてしまった行為を俺は後悔していた。自ら繋がりを断ってしまったようなものである。友達だと思っていた俺に無理やり唇を押し付けられ、汚らしく感じたことだろう。裏切られたと思ったかもしれない。俺を追って過ごした時間を、間違いだったと否定されてもしかたがない。
だけど、俺は若島津が好きなのだ。好きだと気付いてからは狂おしいくらいにヤツが恋しい。こんなに会いたくて苦しくて、泣きたくなるほどあいつの存在が愛おしい。
 初めての感情、遅すぎる初恋だった。

 

 プロ選手としての生活が始まってからは、一日、一週間、そしてひと月がジリジリと長く感じられた。元々人並み外れた体力には自信があったが、肉体に関してはまだ発達途上、コーチからは偏ったトレーニングを指摘され、基礎からみっちりと鍛えられた。そんな未熟な俺ではあったが、トップチームのリーグ戦への出場機会には恵まれた。
サポーターにも受け入れられ、ホーム試合では地鳴りのような歓声を浴びる快感を知った。長いスパンで勝敗に追われるプレッシャーもまた己を奮い立たせる原動力となった。
毎日毎日がサッカー一色、そして自分の日々のなすべきことに没頭できる環境を幸せに感じた。

 サッカーと共にある以上、いつかは必然的に巡ってくるだろう若島津との再会。その機会は思いの外早くにやってきた。
名古屋の第一キーパーが負傷でリタイアというアクシデントに伴い、若島津に出場チャンスが回ってきたのだ。これはキーパーというポジションで、しかも新人にとってはめったにないラッキーである。怪我をした選手には悪いが、やはり若島津は「持っている」んだなと思った。
 ただ卒業から3ヶ月、なんの心の整理もつかないまま、サッカーに没頭することで忘れようとしていた苦々しい思いと、俺は再び向き合わなければならなくなった。
別れ際の乱暴な行為を思い出すと、どんな顔をして会えばいいか分からない。けれど会いたい。会って声が聞きたい。ヤツの顔を目に焼き付けたい。叶うならもう一度触れたい。
複雑な思いを抱えたまま俺は名古屋へ、そして試合当日を迎えることになった。

 先輩達に付いてビジター用のロッカールームを出ると、すでにピッチへと続く階段下には各チームの選手たちが入場の合図を待って、ぞんざいな列を成していた。
そんな中で、若島津の姿はすぐ目についた。一瞬胸が高鳴ったが、今は試合のことだけを考えなければと両の頬を平手で思いっきり叩いた。意外と響いたその音に若島津がちらりと振り向いた気がしたが、俺は視線をやらなかった。
 あれほど焦がれ、思い病むほどに会いたかった若島津が目の前にいる。しかし今は点を取ることだけ。あいつが身動きもとれないようなゴールを決めて、仕事を果たすことだけを考えよう。それは若島津に腑抜けたプレイは見せられないという意地でもあった。
スタジアムに高らかに響くDJの声。階段下にピリッとした空気が走った。エスコートキッズを宛てがわれ、前に倣い整列する。すぐ横に若島津が並ぶのを目の端に捉えたが、俺はまっすぐに前を見据えた。
若島津が振り向いて何かを言おうとした。その瞬間、DJに煽られた歓声が地響きのように押し寄せ、俺達を飲み込んでいった。

 

 若島津と出会ってから8年余り、思えば対戦相手としての真剣勝負は初めてだ。守護神としての若島津はそれは頼もしい存在であったが、ヤツからゴールを奪おうとするのは骨がいる。悉く俺のシュートレンジに飛び出してきては体を張って阻止してくる。どうも動きを読まれているようでやりづらい。またヤツは昔から無鉄砲で、トップスピードで迫ってくる相手にでも躊躇なく突っ込んでいく。学生時代それで額をパックリやったこともあった。
今回そこまで危険なシーンはなかったものの、危うくキーパーチャージを取られそうになり審判に注意を喰らった。
なにがなんでもゴールは割らせないという気迫。攻めても攻めても跳ね返してくる粘り強さとキーパーとしての高いテクニックに、改めて敵に回すと怖い奴だと実感した。同時に、そんなあいつと長い年月を共にできたことを誇りに思った。
結果は0-1。最後まで若島津からゴールを奪うことはできず、惜敗となってしまった。
 長いリーグ戦、負けてもすぐに次へと気持ちを切り替えていかねばならない。だから笛が鳴った後は相手の勝利を認め、互いを讃え合うことで気分を揚げるのである。
交差した数人の選手と握手を交わし、遠路はるばる駆け付けてくれたサポーターのところへ挨拶に向かった。

「日向さん…。」

 懐かしい声が俺を呼び止めた。振り向くと、若島津が正面きって俺を見据え立っていた。
ほんの三ヶ月前には毎日そばにあった顔。少し痩せたかもしれない。俺と分かれ、今はどんな日々を過ごしているのだろう。知りたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、若島津を質問責めにする資格は俺にはなかった。

「…手を抜いたつもりはないんだがな。」
「…わかってる。」
「やっぱおまえ、敵に回すとこえーな。」

 若島津は静かに微笑んだ。胸の奥が絞られるようにぎゅうっとなった。やっとの思いで会えたというのに、口から出るのは当たり障りのない社交辞令的なことばかりで、我ながら苦笑いがこぼれた。

「…じゃあな、お疲れ。」
「日向さん!」
「…なんだ。」
「今日はもう…?」
「ああ、6時くらいの新幹線で帰る予定だ。不景気だからな、経費節減ってやつだ。」
「そうなんだ…。」
「じゃあな、おまえもサポーターに挨拶いけよ。」

 若島津の返事も聞かず、俺はそそくさとヤツに背を向けた。何かを言いたくて声をかけてきたに違いないのに、ゆっくりと若島津の言葉に耳を傾ける余裕が今の俺にはなかった。何万人という観客が見ている中で、昔の友達みたいな顔で平然と若島津を見つめることなどできない。
ヤツに対する思いばかりが膨らみ、現実には手も足も出ない自分が情けなくて、俺はピッチを下りるまで顔を上げることができなかった。

 

 ロッカールームでざっとシャワーを浴びると、俺達のチームは慌ただしくスタジアムを後にした。試合翌日は基本的にオフであるから、ゆっくりしたい選手は予めホテルの延泊を希望したりもするのだが、その費用は自費ということもあり大半のメンバーはチーム側のタイムスケジュールに添って行動する。
駅に到着すると、すぐさまスタッフの誘導で改札へと進んだ。かなりのタイトなスケジュールである。

 俺は迷っていた。このまま名古屋を後にして、次はいつ、若島津に会えるか分からない。ずっと先にある鹿島のホームゲームでも、互いに試合に出られるという確約はない。代表戦があると言っても、五輪代表ならともかく俺達がA代表に選ばれる可能性は低いだろう。
卒業以来ようやく会えたというのに。今日を逃せばあの時の暴挙を詫びる機会はもうないかもしれない。詫びることで、前みたいに普通の友達に戻れるなら、この「好き」だという気持ちにケリをつけても構わないとさえ思う。若島津と一生、近い存在でいられるなら。友達として、並んで歩ける日がくるのなら。

「すいません、俺…!」

 スタッフから切符を手渡される寸前、またしても俺は後先考えずに行動を起こしてしまった。
名古屋に親戚がいるだなんだと理由をつけて、一晩滞在する旨を伝えると、もっと早くに決めておけとあからさまに迷惑な顔をされた。
団体乗車のためキャンセルが効かないから云々と、無駄にしてしまった切符の金を払わされることになったが、そんなことより今夜はどこに泊まるかという問題の方が重大だった。ぽつり一人駅に残った俺は、とりあえず小泉さんに電話をかけた。
彼女の世話で安いビジネスホテルに部屋を取ることができたが、その先のことは何も考えていなかった。
 若島津に会いたい一心で留まることにしたはいいが、俺はヤツの電話番号一つ知らなかったのだ。無計画で突発的な自分の性格にほとほと呆れ、しばらくはベッドに身を投げたまま動く気にもならなかった。
どうやったら若島津と連絡が取れるだろうか。反町は知っているだろうか。タケシはどうだろう。しかしどんなに考えあぐねても、俺の携帯には小泉さんと自宅、チーム関係の番号以外入っていなかった。これまで人並みに他人と関わってこれたのは、全て若島津がそばで世話を焼いてくれていたおかげだったのだと、痛いほど身に染みた。
試合で疲れ果て、腹が減って気力も萎え、うとうとと意識が落ちそうになった時、携帯の着信音に引き戻された。
登録のない番号、一瞬出るのを躊躇ったが、鳴り続ける音をシカトするのも煩わしい。

「…もしもし。」
『………』

 5秒待ったが応答がない。勘弁してくれ、と思わず口に出して言ってしまった。

『日向さん…』
「…え?」
『俺…若島津…』

 知るはずのない若島津の番号と俺の携帯が今繋がっている不思議が理解できず、言葉が出ないまま、しばらくの間、俺はその小さな機器を握りしめていた。

『あの…』

 沈黙に耐え兼ねたのか、若島津がぽつぽつと話を始めた。

『駅に行ったら今日は名古屋に滞在するって、チームのスタッフの人に聞いて…』
「駅に?」
『ん…6時くらいって言ってたから、間に合うかと思って。』
「なんで…」
『だって…ちゃんと話、できなかったから…』
「…番号、どうやって?」
『小泉さんに聞いた。』
「……」
『日向さん、今どこ?会いに行ったら迷惑かな…』

 久しぶりに聞く若島津の声。少し拗ねたような、素直じゃない声。試合で叫び過ぎた後の、掠れ気味な、それでいて甘く響く柔らかい声。こんなにも俺は若島津が好きなのか、いつの間に、これほどまでにのめり込んでしまったのだろうか。コイツを諦めるなんて、絶対に無理だ。顔を見たら俺は何をしでかすか分からないと思った。

「…いいのかよ。二人きりになったら、今度はキスじゃ終わらないかもしれねえぜ?」
『………』
「それでも来るってんなら、小泉さんに聞けばいい。」
『…わかった。』

 そう言って電話は切れた。
こんなつもりじゃなかった。詫びて、元の関係を取り戻して、一生のダチとして付き合っていけたらそれでいいと、気持ちに折り合いをつけるはずだった。
なのに俺はとんだあまのじゃくだ。いや、どちらの俺があまのじゃくなのか、もう判断もつかない。ただ、ヤツの嫌がるセリフでなおさら気持ちが離れてしまったのは確かだ。
俺は心底自分が嫌になり、頭を抱えた。

 ドアをノックする音に俺は跳ね起きた。まさかと思い小さなレンズを覗き込むと、まぎれもない、外に立っていたのは若島津だった。
俺はひとつ深呼吸をしてドアを開けた。

「…勇気あるな、おまえ。」

 来てくれて嬉しいと素直に言えない俺は、いまひとつ迫力に欠ける憎まれ口で若島津を迎え入れた。
ヤツはぐるりと部屋の中を見回すと、まっすぐに俺を見た。以前から薄々気付いてはいたが、若島津は端正な顔をしている。ヤツの外見に女子共が色めき立っていたのも知っている。こうしてじっと、真正面から見つめられるのは長い付き合いで初めてだが、思っていた以上に美人顔の若島津にドギマギしてしまい、顔面が熱くなるのを感じた。

「勇気、いったよ。」
「…だろうな。」
「一人じゃなかったらどうしようとか…。」
「え…?」
「女…とか、いたらどうしようって…。」
「バカ、いるわけねえだろ、んなの。」
「だって…わかんないじゃん…」
「いねえよ!俺は…」

 おまえが好きなんだから。胸の奥から溢れそうになる言葉を飲み込んだ。

「…話ってなんだよ。ちゃんと話せなかったって。…恨み言か?」
「………」

 どんなに関係がぎくしゃくしていても、若島津がそばにいることが嬉しかった。ヤツの口から辛辣な言葉をぶつけられたとしても、それは仕方のないことだと腹を括った。

「話なんて…ない。」
「…なんだよそれ。どういう…」
「あ…会いたかったから…ただ…」
「…え…?」
「会いたかっ…」

 言葉を詰まらせ、若島津は俯いてしまった。
会いたかったと、ヤツは確かにそう言った。長く伸びた前髪に隠れた顔は、ほんのり赤らんでいるように見えた。もっとよく見たくて、俺はヤツの頬に恐る恐る手を触れた。

 

 こんな時どうしたらいいのか、恋愛経験が皆無の俺は、ただ棒のように突っ立って、若島津を見つめるばかりだった。
頬に触れたまま固まっていた俺の手を、若島津がそっと握った。
反応を見るようにヤツは顔を上げた。何か言葉を探しているようにゆらゆらと瞳が揺れていた。俺は返事の代わりに若島津を引き寄せ、遠慮のない力で抱きしめた。
体中がドクドクしている。どちらの鼓動かわからなくなるくらいきつく抱きしめると、若島津の両腕が俺の背中に回り、しっかりと応えてくれた。
互いの温もりが行き来するのを感じる。若島津とそうしているだけで、これまでぽっかりと空いていた全ての空洞が埋められていく気がした。こんなに満たされた気持ちは生まれて初めてだった。

「ずいぶん遠回りしちまったな…。あの時に戻ってやり直してぇ…」
「…どんなふうに?」
「ちゃんと正直に…おまえが好きだって言う。」

 若島津の腕がぎゅっと背中を締め付けた。
ずっと、俺はずっと若島津を好きだったのだ。自覚のないまま、ヤツを心の寄り処にしていた。親父が死んで辛かった頃も、貧乏でひもじかった頃も、気力が底をつかなかったのは、グラウンドに行けばそこにはいつも若島津がいたからだ。勝ち続けなければならないという重責も、若島津がいたから苦にはならなかった。俺にとって無二の存在。

「おまえがいてくれてよかった…ありがとう…ありがとう…大好きだ。」
「日向さん…」

 

 いつのまにか眠ってしまっていたようだ。絡まったシーツから逃れようと身をよじると、温かい肌に触れた。肩を露出させた若島津が横で寝息を立てている。長い髪の毛が寝癖で乱れ、顔を覆っていた。
俺達は一線を越えてしまった。湧き起こる性欲のまま行為に及んだ。行為のひとつひとつを思い出すと熱が蘇ってきそうだ。
一人顔を赤らめていると、若島津が身じろいで腕を持ち上げた。もじゃもじゃの髪を掻き上げると、ゆっくり目を開けた。

「…言いそびれてた。」

 ヤツは掠れきって声にならない声で呟いた。

「俺も、…好きって。」
「…若島津。」

 ごろりとヤツの上に寝返ると、もう何度目かも分からないキスを仕掛けた。初めて触れた日の唇より数倍も柔らかく深く俺を迎え入れてくれた。次第に熱くなる体を再び、ベッドの中で絡ませ合う。
溶け合う温もりに安堵を感じながら、俺は若島津と共に歩む未来に思いを馳せていた。

2011年2月17日~5月20日