若35

 

 

 今年も憂鬱な季節がやってきた。
ウチの実家は本家であるため正月になると大勢人が集まってくる。三が日はとにかく大忙しで、遠くの親戚から近くの門下生まで絶え間なく人が出入りする。
昔は一人で切り盛りしていた母もさすがに年を取った。今は結婚して外に出てしまった姉と妹の助けを借り、新春の来客に対応している。
 中1で家を離れた俺にとっては、実家といえどもはや親戚の家に等しい感覚だ。見慣れない人間が行き交う玄関や座敷を、懐かしいと思う気持ちもとうにない。今となっては10年以上住まう名古屋のマンションが戻るべき場所であり一番落ち着ける。
高校時代は冬休みギリギリまで選手権を戦っていたおかげで正月に埼玉へ帰ることはなく、不義理の次男の称号に甘えて疎遠を決め込んでいた。プロになってからも年末年始の大きなタイトルに絡むことが多く、さらに有難くも代表選手として常に召集されていたため忙しいのを理由に帰省を延ばし延ばしにすることが当たり前になっていた。

 そんな俺もつい先日35歳を迎えた。ここ数年は代表に呼ばれることもなくなり、天皇杯の結果次第では人並みな正月を過ごすことも可能となった。
両親もいつまでも元気でいられるとは限らない。マメに顔を出して親孝行しなければとも思う。しかし年明けのこのタイミングで実家へ顔を出すのはどうにも気が乗らない。
兄、姉、妹、彼らはそれぞれに家庭を持ち子供にも恵まれている。少なからず血の繋がった甥姪たちを可愛いと思うし、会えば相手をしてやることもやぶさかではない。
 では何がというと、子供たち相手に愛想よく振る舞う俺を見る両親の目線が痛いのである。
そして、正月に訪れたお節介な親戚たちの残した「見合い写真」が俺を憂鬱にさせるのだ。

「健さん、あなたこないだでいくつになったのかしら。」
「35だよ。」
「そうそう、そうよね。やだもう『アラフォー』じゃない。大変だわ。」
「…そんな慌てて四捨五入しなくても。」
「土屋さんとこのマーくん、こないだ3人目が生まれたのよ。男の子ですって。いいわねえ…」
「ウチにも孫が7人もいるじゃないか。充分じゃないの?」
「あ、そうそう、元旦に。ほら、群馬の隆夫おじさんがね、これ持ってきて下さったの。」

 長い前置きの後、母はおもむろに見合い写真を開きながら笑顔で俺の胸元に突き付けた。

「素敵なお嬢さんでしょ?ね?」

 これだから。
俺は失礼のないように写真を静かに閉じると、精一杯の笑顔で「悪いけど」と言った。一気に母の顔が暗くなる。

「健さん、そろそろ決めておかないと、選ぶ立場から選ばれる立場になってしまうのよ、35もなるとね…。それにいくらあなただって、いつまでも若々しく美しくはいられないのよ。そう、いずれは…」
「選手としていつまで現役でいられるか、保証はないのだろう?」

 父が口を挟んできた。

「引退後のことだって色々考えてるよ。もうそんなに先のことでもないわけだし。」
「子を持つなら早い方がいい。父親の華々しい時代を知らないでは可哀想だぞ。」
「…悪いけど、子供を持つつもりはないよ。40になっても50になっても、その気持ちは絶対に変わらない。」
「なぜ?」

 母が泣きそうな声で言った。

「結婚して子供を持つだけが幸せな人生ってわけでもないだろ。俺には俺の価値観があるんだよ。」
「しかし若島津家には若島津家の価値観がある。そしておまえは若島津家の人間だ。」
「もう…いいかげん諦めてくれないかな…。」

 俺は小さく溜息した。この数年、毎年のようにこんなやり取りが繰り返されているのだ。そして互いに一歩も引かないまま、最終的には気まずさに耐え兼ねた俺がそそくさと退散する、というのが新年の恒例行事のようになってしまった。


 翌日、2、3泊用にこしらえた軽めの荷物をまとめると、俺は両親に挨拶を済ませ駅に向かった。
歩きながら携帯を取り出す。

『よお。どうだった、正月は。』
「まあ、…いつもの感じ。」
『疲れてんなあ。』

 相手はククッと笑いを噛んで言う。

「笑い事じゃない。」
『まあいい。俺も今から駅に向かう。…それか座席で落ち合うか?』
「その方がいいかも。グリーンでいいよね?時間分かったらメールする。」
『ああ、頼む。』

 クリスマスからの長期休暇に帰国していた日向さんも、正月は俺と一緒に埼玉の実家に帰省していた。しかし実家とは名ばかり、日本に滞在する時は専ら名古屋の俺のマンションが拠点となっている。
俺たちの関係は古い友人知人には周知のことで、実を言えば知らないのは互いの家族だけかもしれない。もちろん世間一般には極秘であるが。
親が待ち望む「結婚」を拒み続けるのも、俺には生涯の伴侶と決めたパートナーがいるからだ。たとえ常識に背いた生涯になると分かっていても日向さんのことだけは、諦めるという選択肢は過去にも未来にも絶対にないと言い切れる。

 新幹線に乗り込むと、2枚の切符を手に座席を探した。程なくして入場券で改札を抜けてきた日向さんが現れた。

「直子もこの春二人目だってよ。」
「へえ、おめでとう。おばさんは元気?」
「ああ。」

 発車を知らせるメロディが流れた。

「俺さ、もう…日向さんのこと、話そうかと思うんだ。…どうかな。」

 新幹線はゆっくりと速度を上げ、駅のホームを離れていく。

「いいぜ、俺は。…うん、実は俺もな。」

 ビルの隙間に青空が見えた。

「今季終わったら、帰国しようと考えてる。」
「…え?」
「向こうでは多分、次はもうない。そんな空気だ。」
「…そう。」
「小泉さんが水面下で色々動いてくれてる。現役で一円でも高く拾ってくれるところなら、どこへだって行くつもりだ。まだまだ稼がねえとな。先は長いんだからよ。」
「そうだね…」

 街中を走っているはずなのに、今だ駅の中にいるように何本もの電車が並行して走っている。その中に、二人で東邦へ帰る時に何度も乗った電車を見つけた。なんだか急に懐かしくなる。

「帰ってきたら、親に言う。おまえと一生やってくって。」
「え…」
「それまで待っててくれるか、おまえんとこ。」
「…いいの?本当に?」
「まずウチのお袋に話して、それからおまえン家行って。…そんで、殴られる。」
「まさか!殴ると思う?ウチの親。」
「そんぐらい覚悟してねえとな。」

 日向さんは笑っていたが、拳を握りしめていた。本当は不安に違いない。俺だって、日向さんの家族の気持ちを思うと申し訳なさでやりきれなくなる。けれど、だからといってこの人を手放すことはできない。痛みを伴わなければ俺たちは前へ進めないのである。
俺は日向さんの拳を包むようにそっと握った。

「ありがとう、日向さん。」

 次の駅までの時間、俺たちはいい年をして指を絡めながら手を握り合っていた。

 

 

 

2010年1月18日