妄想日記4

 土曜日。後期の教科書を揃えるため、久しぶりに下界に降りた。
土日の部活は4時上がりだ。平日は授業が終わって門限ギリギリまでやってるから、週末の夕方は皆こぞってバスに乗り込む。
しかし大半の奴らはせっかくのフリータイムを本屋なんかで潰してたまるものかと、駅前に着くなり蜘蛛の子散らしたようにどこかへ消えていなくなった。
彼女との待ち合わせだったり、ゲーセンや映画を観に行く奴もいる。
教科書なんか親に頼んで送ってもらえばいい、なんていう優雅な奴ばかりだ。
 結局、残ったのは俺と若島津。

「なんにもねえのは俺達だけか」

 ほんとにサッカー以外なにもない。改めて思うとなんだか笑えてくる。
若島津を見ると奴もうっすらと笑いを噛んでいた。

「いいんじゃないの?楽でいいよ」

 そう言って学校指定の本屋へと歩き出した。
レジで学校名と学年を言うとあらかじめ用意されている袋を出してくれた。
金を払うと俺達は他の本には目もくれず店を後にした。
 マンガや雑誌は寮のどこかに転がっているし、読みたい本があれば学校の図書館に行けばいい。俺なんかに比べ読書家の若島津も、いつもそうやって間に合わせている。
坊ちゃん育ちのくせにこういうところはちゃっかりものだ。
 帰りはいつものように3つ手前のバス停で降り、50円節約。その金プラスαでアイスを買って食いながら帰るのが定番だ。
道なりにあるコンビニに立ち寄りアイスを買った。ガリガリ君コーラ味、若島津はソーダ。

「またコーラ?たまには違う味にすればいいのに」
「いいだろ、ほっとけ」

 袋から取り出したアイスはまだギンギンに冷えていて霜がついていた。

「冷たくて噛めねえ」
「うん、ガチガチ」

 そう言いつつ若島津は威勢よくガジッと音をたてて一口目を頬張った。

「どういう歯してんの、おまえ」
「え?フツーだけど」
「おまえに噛まれたらひとたまりもねえな」

 どうしてそういう発想になったか自分でも分からない。ただなんとなく若島津がドラキュラで、喉元にかぶりつかれる自分を想像してしまった。
一瞬、周りの音が聞こえなくなるほどにその妄想は俺の体を駆け巡った。
 何を考えてるんだろう、俺は。

「ねえ、コーラ少し味見させてよ」
「……」
「日向さん?」
「あ?ああ」

 言われるままに差出すと、若島津はまだ一口も食べていない俺のアイスを遠慮もなしに齧った。
そこには綺麗な歯形が弧を描いていた。そこに残された完璧な歯並びにしばし見蕩れてしまう。

「あ、ごめん。食い過ぎ?」
「い、いや」
「ソーダも食べてみてよ。美味しいから」

 口元に差出され、反射的に口を開けた。一応気を使ったのか、そこは若島津が齧ったのとは反対側の部分だった。
味なんか分からなかったが、無意識に「うまいな」と口が勝手に喋っていた。
そのセリフに満足したのか、若島津は「だろ?」と笑いながら再びアイスを口にした。
俺が齧った部分が若島津の唇に吸い込まれる。
 意味の分からない動揺にとまどいながらも、俺は若島津の口元から目が離せなかった。

 それからというもの、俺は若島津の口元が気になってしょうがなかった。
上品な佇まいのアイツは誰かのように口をポカンと開けっ放しにしたり、大口開けてバカ笑いしたりしない。だからたまに愛想笑いした時なんかに見せる、セラミックのような真っ白い歯にドキドキさせられる。
前にチラッと聞いたことがあるが、武道家にとって歯並びは大事なんだそうだ。噛み合わせが悪いと力が発揮できないらしい。尤も、それはどのスポーツにも言えることなんだが。
奥歯の事までは知らないが、整然と並ぶアイツの前歯はアスリートとしては完璧に見えた。
 ある日、消灯時間が過ぎても若島津が部屋に戻ってこない。
気になって談話室へ降りていくと、珍しいことにヤツはソファーですっかり眠りこけていた。照明の落ちた薄暗い部屋で、自販機の電気だけが煌々と灯を灯している。
決して座り心地の良くないソファーに、こんな無理な体制で長時間寝続けたら間違いなく明日の練習に響くと思った俺は、起こしてやろうと手を延ばしかけた。が、寸前でぴたりと動きを止めた。
若島津の唇がうっすらと開き、わずかに白い歯が覗いていたのだ。
俺は好奇心を押さえきれず、爪の先でヤツの前歯をコツンとノックした。同時に触れた唇が劇的に柔らかくて目眩がした。
暗がりなのも手伝って、これが夢なのか現実なのか、わけが分からなくなってきた。
夢かもしれないと思うと、とたんに図々しさが増して指先では物足りなくなってしまった。
 スウスウと浅い呼吸をくり返すその唇に夢遊病のように吸い寄せられ、若島津の吐息が俺の唇にぶつかった。
その途端。

「だれ…?」

 崖から足を滑らせて夢から覚めた時のように、全身が跳ね上がり、俺はソファーから飛び退いた。

「わっわりい!転んじまって……」

 心臓がバクバクして汗が吹き出す。しかしなんとかこの場を誤魔化さなければと見え見えの嘘で言い訳した。けどヤツからはなんの反応もない。俺は恐る恐る若島津の顔を覗き込んだ。
 すると若島津は目を閉じたまま、さっきと同じように半開きの口で寝息を立てていた。

「な、なんだ、寝言かよ」

 気が抜けて、ついでに腰も抜けそうになったがかろうじて起き上がると、気を取り直して声をかけた。

「おい、こんなとこで寝るな。体おかしくするぞ」
「だから…だれ…」
「俺!」
「なんだ…日向さんか…」

 一瞬なにが起こったか理解できなかった。
若島津のデカイ手が俺の腕を引っ掴んで、ものすごい力で引き寄せられたのだ。いきなりのことで体制は崩れ、俺は若島津の上に倒れこんだ。
腕が首に回る。ヤツの頬が耳に触れた。

「他のヤツならぶっ飛ばしてやるとこだぜ…」

 ……。なにがなんだかワケワカメ、だ。

 結局、あれから再び眠りの底に沈んだ若島津をズルズルと引きずって、部屋まで連れていったわけだが。
重かったとか、腕が吊りそうだったとかよりも、俺の頭を悩ませたのはアイツの寝言ともつかないセリフだった。
他のヤツならぶっ飛ばす。だが俺なら構わない。…そう聞こえてならないのだ。
何が構わないかというと、この場合やはり触れそうで触れなかった唇ということだろう。
 ようするに若島津は俺にならキスされても構わないと思っている、ということだ。
勝手に導きだされた、一見俺の都合のいいように聞こえるこの答えに、一番戸惑っているのは俺だった。
俺自身、昨夜の自分の行動に疑問なのだ。なんであの時、若島津にキスしようとしたのか。
もしかしたらただの好奇心の延長上だったのかもしれない。
アイツの唇があまりにも柔らかくて気持ちよさそうだったから…。
なら、他の誰かでも同じことを思うのか?
俺は思い浮かぶ限りの顔を脳裏に浮かべ、とっかえひっかえ想像してみた。
 …そして気分が悪くなった。
どうやらこの好奇心は、若島津に対してのみ成立するものらしい。
アイツはキレイだから。そして俺は面食いだから。だからつい心に迷いが生じたのだろう。
そういうことで俺の行動には理由がついた。
だが若島津の言葉がどうにも胸に引っかかる。いや、言葉だけではなく、その動作も。

 次の日、ヤツは昨夜のことを全く覚えていなかった。ホッとするような、ガッカリのような…。
きっと俺は複雑な顔をしていたのだろう。若島津は自分がなにかをやらかしたのだと思ったらしく、何度もしつこく聞いてきた。やらかしそうになったのは俺の方だとは口が裂けても言えない。しかし、全てを無しにするのも何故か勿体無い気がした。

「おまえ…俺を誰かと間違えて、抱きついてきたぞ」
「え…?」

 見る見るヤツの顔色が変わった。

「俺みてえなガタイを女と間違うなんて、おまえ相当疲れてたんだな」
「……」

 若島津の顔がふてくされていくのが分かった。やっぱり言わない方が良かっただろうか。からかうつもりはなかったが、ヤツの反応を見たかったのは事実だ。自分でも悪趣味だと思う。
しかしその反応は、意外な言葉で返ってきた。

「多分、間違えてはないよ」
「え?」
「あんたと分かって抱きついたってこと!」

 最後は語気を荒げて言い捨てるように、ヤツは部屋を出ていった。

 今朝から一度も、若島津は目を合わせてくれない。
食堂でも、通学路でも、朝練でも、そして教室に入っても、俺が近づいて話しかけようとするとスルリと交わしてそっぽを向いてしまう。
とりつく島のないアイツの横顔にショックな反面、なぜかホッともする。
とにかく若島津が機嫌を損ねてしまったのは事実で、その原因は俺にあるわけだ。悪かったと一言謝って済むならそうしようと思う。
しかし内心は逃げ腰だった。
 俺と分かって抱きついた、とヤツは言った。
俺の自惚れでなければ、これは告白だ。若島津は俺に対しそういう気持ちを抱いているということだ。
これまで男同士の友情と信じて疑わず、苦楽を共に過ごしてきた片割れのような存在のアイツが、実は色めいた感情で俺を見ていたってことだ。あの時も、あの時も。もしかしてアイスを分け合ったあの時も、本当はものすごくドキドキしていたのかもしれない。
そんなふうに考えると、若島津のことが無性に可愛く思えた。だが、ヤツのその気持ちを受け止めきれるだけの覚悟がまだ俺にはできていなかった。
その前に俺は、俺自身の気持ちに向き合う必要がある。
 実際俺はどうなのか?
ただの好奇心で踏み込める領域ではない。人生を左右されるかもしれない選択なのだ。いくら可愛くてキレイでも、若島津は男だ。
 ……男なんだ。
俺はいつしか『なんで若島津は男なんだろう』という思いに至っていた。
アイツが男でなければ、こんなに悩まなくて済むのに。なんの迷いもなく、ストレートに感情をぶつけられるだろうに。
 そしてここにきてようやく、俺は自分の気持ちに気付いた。

 ──そうだったのか、俺は!

 それならこれまでの意味不明な動揺にも説明が付く。キスしそうになったのだって、単にムラムラしただけだ。
好きだから。だから触れたくなったにすぎない。
バカバカしいほど単純なことだった。
そうと分かれば、一刻も早く……
 どうすればいいんだ?

********

 ―――「…さん」

「……」
「日向さん!」
「はっ…?」
「教室移動。みんなもう行っちゃったぜ」

 見渡せば教室には俺と、教科書を抱え不機嫌そうに俺を見下ろしてる若島津の二人だけとなっていた。

「なに深刻な顔で悩んでんの。昼飯のこと?」
「あー…いや、その」
「遅れんなよ」

 若島津は相変わらずのツッケンドンな態度でプイと背中を向けた。

「ま、まてよ」
「一人で来れるだろ、視聴覚室。もう始まっちゃうし。じゃあな」
「そうじゃなくて、昨夜のこと!」
「……」

 大股でズカズカと2、3歩行ったとこでヤツの足が止まった。

「あのさ…あの…俺まだおまえに言ってないことがあって…色々迷っててよ。んで、今朝おまえに言われてようやく気付いたっつうか…」
 自分でも何を言っているのか分からなくなりそうだった。元々弁説に達者な方ではない。おまけに素直な方でもない。思ったままの気持ちを言葉に乗せるのがこんなに難しいことだとはついぞ思いもしなかった。
しどろもどろになるのはもう一つ、若島津が俺の方を向き直り、瞬きもせずにじっと見つめているのだ。俺はまるで幻術にでもかかったように、ヤツの瞳から目を逸らすことが出来なくなっていた。
ふいに若島津の視線が解かれた。正面切って見据えていた顔が背けられる。

「なに本気にしてんだよ。冗談に決まってるだろ」
「…え、なに?」
「今朝言ったこと!そんなわけないじゃん。真剣にとらないでよ」
「……」
「そういうわけだから…悪かったな。無駄に悩ませちゃって」

 若島津は振り向きもせず、教室を出て行こうとした。
うそだろ?何が冗談なんだ。どこからどこまでだ。俺はこんなに真剣に悩んで…ていうか、気付いちまったこの気持ちはどうしたらいいんだ!
腹の底から沸々と沸き上がる感情が脳天に達する前に、体が勝手に動いていた。
 俺はヤツの腕を掴んで乱暴に振り向かせていた。

「ふざけんなよ!すかしたこと言ってんじゃねえよッ!」
「…っ」
「おまえがそんな人の心を弄ぶようなヤツだとは思わなかったぜ!」
「な…っ?」

 見る見る若島津の顔が真っ赤になった。

「弄んだのはそっちだろ!?アンタがあんなことするから…てっきりアンタもそうなのかと思ったんじゃないかっ!なのに朝になったらなんもなかったみたいな顔して!それってズルくね!?」
「…あ、あんなことって…」
「キスしようとしたじゃん!しらばっくれんじゃねえよ!」
「おまえ…起きてたのかよ…」
「……」
「ズルいよ、それ」

 始業のチャイムが鳴った。
しかし俺達は、両足を床に縫い付けられたみたいに一歩も動けずにいた。

「俺が…アンタに気付かないわけないだろ」
「若島津…」
「なのに…女と間違えて、なんて。あまりにもデリカシくない…」
「悪かったよ…」
「すっごい傷付いた…」
「悪かった…」

 言いたいことが言えてスッキリしたのか、若島津は落ち着きを取り戻したようだった。
ふうと一息つくと、側にあった机に浅く腰かけた。

「聞くよ。日向さんの話」
「え、今さらか?」
「色々悩んでくれたんだろ?頭抱え込んじゃって、すんごいマジな顔してた」
「ああ、スゲエ考えたぞ。でも無駄じゃなかった」
「どうだか」

 俺は若島津の正面に立つと、ヤツの両手を握った。

「好きだ」

 大した動揺も見せず、若島津は俺を見上げた。

「誰が?」
「俺が」
「誰を?」
「おまえを」
「……」

 今日初めて、若島津が笑った。

「なんなんだろうな、俺達」
「え?」
「二人揃って、アブノーマル」
「笑い事じゃねえだろ。でも…おまえだから、受け入れられた」
「……」
「もう、覚悟はできてるから。逃げねえ」

 俺達は恐る恐る顔を寄せあって、初めてのキスをした。
つい興奮して唇を押し付けたら、歯と歯がぶつかってえらく痛かった。若島津の前歯は見た目同様セラミックのような頑丈さだった。
噛まれたらひとたまりもないから、舌を入れるのは次のキスまでお預けにしておこうと思った。

 あれから俺達は、週末になるとたまに二人でバスに乗った。
ただ街に出てブラブラするだけの時間をなんとなく楽しむ。そして帰りはいつものように3つ前のバス停で降り、アイスを食いながら帰るのだ。
 だんだん秋も深まり、霜のついた氷を頬張るのも震えが走る季節となってきたが、こっそり繋いだ手は温かさを増す。
サッカー以外なにもないと思っていた俺の学生生活も、案外人並みに幸せみたいだ。

2007.9.19〜10.4