ムーンスライダー

 ほぼ日が暮れかけたグラウンドに照明が灯る。
その日、サッカー部は紅白に別れ練習試合を行なっていた。
キャプテンの日向率いる赤と、副キャプテン若島津率いる白。練習とはいえ目の前の勝負は負けられない。お互い負けず嫌いの性格だからいつだってマジ勝負である。
「そんなにムキになっちゃって」と半分呆れつつも赤チームで日向とツートップを組む反町は二人の火花を楽しんでいた。
 あと1分程で試合終了という時、左サイドから反町にボールが渡った。

(え~と日向さん…よし!)

 ディフェンダーを交わしながら横目で日向の位置を確認するとカーブをかけてセンタリングを上げた。

「おっし!いただき!」

 まるで計ったように日向の足元に回転のかかったボールが吸い込まれる。

「させるか!」

 このコースなら絶対取ってみせる。なめんなよ、と言わんばかり若島津が身を屈めてシュートコースを瞬時にとらえた。ノートラップでシュートを、と軸足に力を込めたその時、日向の足首がわずかにいつもと違う角度に折れた気がした。

(あ、くそ、バランスが…)

 その体勢と足首に若島津は気を取られてしまった。いくらお互いマジ勝負とはいっても練習で体を傷めてしまっては元も子もない。しかし日向の足首は常識はずれに柔らかく、おかしな方向に曲がったように見えて実はしっかりと体を支えていた。
まどわされた若島津はすっかり反応が遅れてしまった。ペナルティエリア内からの日向の渾身のシュートを、おもいっきり額に受けてしまったのだ。

「!!……」

 鈍い音とともにボールはバーの上に弾かれ、若島津はゆっくりとゴールネットに寄りかかるように倒れていった。

 

 

 

 若島津は病院のベッドにいた。気を失ったまま、目覚めないのだ。
あれからすぐにコーチと顧問の先生が駆け付け、大慌てで救急車を呼び、そうして慌ただしく救急病院に運ばれてきた。
当直の医師が言うにはただの脳シントウで、そのうち目覚めるだろうということだったが、自分の蹴ったボールで意識を失ったわけで、日向はかなり落ち込んでいた。
 一緒に救急車に乗り込んできたものの、額を赤く腫らした若島津の姿を見るのは辛く、人気の少なくなった待合室の椅子に座って頭を抱えていた。
心配で同行してきた反町がそんな日向を痛々しく思い、明るい口調で元気付けた。

「大丈夫だって!脳シントウだろ、すぐに気がつくってば。」
「そんなこと言ったって、もう一時間もあのままなんだぜ…?あいつにもしものことがあったら俺は…。」

 普段は図々しい程物事に動じない日向がこんなに取り乱すなんて。
かける言葉をあれこれ考えてるうちに、ふと日頃から思っていたことがスルリと口から出てしまった。

「日向さんさ。ずっと気になってたんだけど…日向さんて、若島津のこと特別な目で見てる?」

 伏せられていた目がバチッと開く。

「すごく…大事にしてるよね。それってさ…」

 まだ終わらない言葉を遮るように、日向は荒々しく声を上げた。

「だったらどうだってんだよ!」
「え…どうって…」
「そうだ、俺はあいつが大事だよ!特別なんだよ!」

 自分では重大な告白をしているとは全く気付く様子もなく、日向は堂々と若島津への思いを声を荒げて叫んでいた。

「わ、分かったよ。そんな青筋立てて言うことないだろ。」

 あまりの迫力に気押されて、思わず逃げ腰になってしまった。

「…スマン。」

 やっぱりそうだったんだ…。5年間同じ釜のメシを食ってきた親友の、誰にも言えなかったであろう秘めた思いの重さに、聞かなければよかったと少し後悔した。

 

 

 

 エレベーターが開くと、軽快なスリッパの音が近付いてきた。

「若島津、気がついたぞ!」

 サッカー部の顧問、柳下先生がニコニコ笑って大声で叫んだ。その声は外来の時間もとっくに終わり、ガランとした待合い室にやたら元気に響き渡った。

「マジっすか!?ほ、ほらあ~~っ、なっ?」

 反町が嬉しそうに日向を肘で突く。ホッとし過ぎて力が抜けた日向は、背もたれのない椅子から危うく崩れ落ちそうになった。
病室に入ると、額に大きな絆創膏を貼った若島津がポーッと天井を見つめていた。まだ意識が戻ったばかりで状況がつかめてないらしい。
若島津のどうにか無事な姿に、日向は安堵のあまり涙が出そうになった。そんな自分を見られたくなくて、慌ててドアに向かった。

「‥俺、寮に電話してくる。皆心配してるだろうし。」

 そう言い残すとそそくさと出て行ってしまった。ガラにもない日向の弱々しい姿に思わず吹き出しそうになりながら、反町は若島津を見舞った。

「もービックリしたよ、全然起きないんだもん。脳シントウだってさ。まだクラクラする?」
「うん…ちょっとズキズキするくらい…。それよりもさ。」

 そう言ってさっきまで自分が着ていたユニフォームに目をやって不思議そうな顔をした。

「なんで俺、先輩のユニフォーム着てんの?」
「…え?」
「だってアレ、神谷先輩のじゃん。」

 さっきまでの安堵が一瞬にして凍りつく。
「若島津…おまえ…?」

 それからはてんやわんやの大騒ぎだった。
医師を呼んで再診察、精神科で検査、カウンセリング、若島津の実家から母親が到着するのを待って診査結果の説明を受け、その一部始終に日向と反町も付き添うこととなり、結局二人が寮に帰りついたのは夜の11時を回っていた。
若島津は頭を強く打ったことによる一時的な記憶の混乱を起こしているらしい。つい最近のことを憶えているかと思えば、自分は高1でサッカー部ではまだ控えだからあの色のユニフォームは着ちゃいけないんだという。
とにかく今日は一晩入院して、明日からはしばらくの通院を余儀なくされた。でも本人は至って元気そうで、駆け付けた母親もひとまずホッとした様子だった。

 しかし日向はかなりのショックを受けたようで、終始ほとんど口をきかなかった。
自分のせいでこんなことになるなんて…。
医者の「そのうち戻りますよ」という言葉を聞いてわりと楽観的だった反町も、今にも死にますと言われたかのような日向の思いつめた顔を見ていると、だんだん暗い気持ちになってきた。

(でも…大丈夫だよな、若島津…。)

 

 

 

 寮の部屋で、若島津は反町と同室だった。
1年の時まで、中学から数えて4年間ずっと日向と同部屋だった若島津は、退院して寮に戻るとあからさまにショックな顔をした。

「俺と一緒じゃつまんない?」

 2年になって、若島津と同じ部屋になれたことが嬉しくて浮かれていた反町は、あきらかにテンションの下がった若島津を見てひそかに落ち込んだ。

「そういう訳じゃないよ。いきなりだったから驚いただけ…。それより」

 拗ねた顔の反町を頭のてっぺんからつま先までまじまじと見て、

「おまえ、背ぇ伸びた?」
「…あのなあ、そういうおまえだってこの1年で10センチ近く伸びてんだぜ?」

 借りてきた猫のような若島津に最初は戸惑っていたが、他愛のない話をしてるうちにだんだん違和感もなくなってきた。
 お互いのベッドに腰掛けて今までの記憶をたぐリ始める。最近のことをまるで昔のことのように話したり、全く憶えてなかったり…。
 そして反町はあることに気付いた。最近のこととは、必ずと言っていいほど日向が絡んだ出来事なのだ。
売店の最後のパンをめぐって日向とケンカしたのはたしかに昨日の昼休みのことだ。

(日向さん、よかったな。あんた忘れられてなんかないよ。)

 道ならぬ恋に思い悩んでいた日向のことを思い出し、反町はふとイタズラをしかけてみたくなった。

「やっぱ記憶をなくしても日向さんとの絆は強いんだな。なんてったって付き合ってんだもんな、二人。」

 もし若島津が怒り出したら、自分の冗談にしてしまえばいい。からかい半分の気持ちで反町はそんなことを言ってみた。
しばらく反応がない。
(やっぱ冗談キツかったかな)と恐る恐る若島津の顔を覗き込む。そして一瞬、反町は固まってしまった。
真っ赤になり、思いつめた表情のその目はなんと潤んで揺れていたのだ。

「わわ、ゴメン!忘れてっ今の…。」
「つ、付き合ってるって…日向さんと、俺が…?」

 

 

 

 予想もしなかった若島津の反応に、反町は引っ込みがつかなくなってしまった。
ここで「なーんちゃって、冗談!」と言ってしまえばよかったものを、さも事実と言わんばかりの勢いで続けてしまったのだ。

「そうだぜ?おまえ日向さんとデキちゃってんのよ。」

 言った直後に後悔した。いくらなんでもこれは言い過ぎた。記憶障害で不安定な若島津をつかまえてあまりにもデリカシーのない発言である。
 そしてこのことを知った日向が怒りに逆上する姿を想像して怖くなった。早いとこ撤回して冗談にしなければ…。

「な、なーんて‥‥」

 …とおどけて見せようとする反町のことなど眼中にもないといった風に、若島津は深刻な面持ちで呟いた。

「それって、お、俺が告白したってことかな…やっぱり。」
「…え?」
「つ、付き合って、ってことは…日向さんが俺を受け入れてくれたってこと…?」

 若島津の言ってることの意味がのみ込めない反町は、しばらく口をぽかんと開けたまま次の言葉を待つしかなかった。

「俺…日向さんに告白しちゃったんだ…。」

 反町にというよりも、記憶をなくす前の自分自身に問いかけるように呟いていた。

(え?もしかしてこいつらって…両想い!?)

 

 

 

 同性の幼なじみのことを恋煩っていたのは日向だけではなかったのだ。
いつからかなんてはっきりした意識などない。ただ気がついた時には、二人はお互い一番近い存在でなくてはならない存在になっていた。恋だとか愛だとか、そんなものにはまったく疎いサッカーバカと、そのサッカーへの情熱と才能に惚れ込み、同じ夢を共有したいという一念で親元を離れ、東邦までついてきた若島津。
 そんな「恋愛」にはほど遠い二人が、実はこんなにもお互いを想い合っているなんて。こんなスリリングな恋を目の当たりにしたことが未だかつてあっただろうか。
「男同士なのに」なんていう常識的なことはすっかり頭から消え去ってしまった反町は、(この二人の恋を成就させたい!)と心から願っていた。

 

 

 

 記憶の混乱はあるものの、若島津の日常にさして支障はなかった。
ただちょっとした話が通じなかったり、2年に入って新たに始まった教科などに関しては手間取ったりもしたが、もともと学力は高く飲み込みも早い若島津は、一週間ほどでなんとか授業にも付いていけるようになっていた。
 この一週間は、頭のケガということもあり激しい運動にはドクターストップがかけられていた。そのため部活動は強制的に休まされ、寮に帰ってもやることがない若島津はひたすら教科書をめくる毎日だった。こんなにガリ勉したのは人生で初めてだと笑って言った。

 一方の日向はまるで覇気のない日々だった。吉良監督の言葉を借りるなら「牙の抜けた虎」そのものだ。魂のこもらないシュートを打っては何度も監督にどやされた。いつもならギッと睨み返して何度だってボールを奪ってシュートを蹴り込む日向だが、怒鳴られても、もうベンチへ下がれと言われても、「はあ、すいません」と力なく謝るだけだった。
最初の3日は本気で「もうやめてしまえ!」と激しく叱咤していた監督も、そんな日向に次第に戦意を喪失してしまったのか、今では「早く若島津の記憶が戻らんもんかな」とため息まじりに呟くようになっていた。

 

 

 

 クラスも部屋も違う日向と若島津は、グランドだけが唯一近くにいられる場所である。
しかし若島津が休みを強いられているこの一週間、二人はまともに顔を合わせていなかった。
 あの日病室で、「日向さん、スゲーでかくなってる!」と目を丸くして、なんとなく嬉し気に笑った若島津の顔が忘れられない。
ボールを避けられなかった自分が悪いんだと若島津は言った。額の傷は日を追うごとに消えて、今では小さなかすり傷が残っている程度だ。でももしこのまま記憶が戻らなかったら…。そう思うと日向は自分を責めずにはいられなかった。
 部活が終わり、ロッカールームで着替えていると反町が声をかけてきた。

「日向さん、今日さあ、部屋替わってくれない?」
「え、なんで。」
「島野とオンラインゲームやるんだー。明日は午後練だけだからさ、久々に。」

 明日の土曜は部活が午後からということもあって、あちこちで夜更かしの相談が聞こえてきた。そんな浮かれムードとはうらはら、もちかけられたお願いごとに日向は顔を曇らせた。

「…俺がいちゃできねーの?」

 反町と部屋を替わる、ということは若島津と一晩一緒に居るということだ。1年の時までは四六時中顔を合わせていてもそれが当たり前で、休みで帰省中などはいないことが物足りないような、寂しいような、そんなカンジだった。
ちょっとの時間と距離が空いてしまっただけなのに、今はものすごく意識してしまいそうな自分が怖い。顔なんかまともに見れないかもしれない。
できればそんな状況からは逃げたいと日向は思っていた。
 しかし反町は手をすり合わせ土下座せんばかりに、

「お願いしまス!今日のところは島野と二人だけで話したいこともあるし、…ねっ?こんどA定食おごるからさ。」

 ここまで頼みこまれてしまっては日向も引くしかない。別に定食なんてどうでもよかったが、渋々その条件をのむことにした。
 実をいうとこれは反町の目一杯の作戦だったのだ。たしかに島野はネット遊び大好きでちょくちょく反町も使わせてもらってたのだが、今日は日向と若島津を一緒にさせる為に仕組んだことだった。

 

 

 

 昨日の晩のことだった。

「あのさ…こんなこと聞くの、ものすごく恥ずかしいんだけど…。」

 若島津が思いつめたように反町に話しかけてきた。

「俺と日向さんが付き合ってるっておまえが知ってるってことはさ…。」

 反町はドキリとした。記憶をなくしてるとはいえ、さすがに何かおかしいと気付いたのかもしれない。
たしかにそんな事実はないし、当の日向に至ってはまさか若島津が自分のことを好きだとは思ってもいないのだ。日向の態度が「付き合ってる恋人同士」ってのとはあきらかに違うと、勘のいい若島津ならとっくに気付いてもおかしくない。
こうなったらこんな裏工作ではなく堂々と二人を結び付けてしまった方が早道なのかもしれない。
そうは言っても二人の間にズカズカと入り込むのは出歯亀みたいでイヤだけど…。
 あれこれ考えを巡らせていたが、若島津の問いかけはそんな反町が待ち構えていたものとは全く違っていた。

「俺…反町にいろいろ相談とか乗ってもらってたのかな。」
「えーと…。」

 あ、まだ大丈夫、信じてる。反町は悟られないようホッとため息をついた。

(そうだよな。俺が知ってるってことはカミングアウトしてるってことだもんな。)

 詰めの甘い作戦にちょっと反省しつつ、気を取り直して口八丁に拍車をかけた。

「安心しろよ、知ってるのは俺だけ。相談っていうか…そうだな。ノロケはいっぱい聞かされたかな。」
「ノ…ノロケ…!?」

サッと血の気が引いて青くなったかと思ったら今度は見る見る真っ赤になっていく。こんな若島津、日向さんだって見たことないだろうな…そう思うとちょっとした優越感だ。
普段は冷静であまり喜怒哀楽を表に出さない奴がこんなにも青くなったり赤くなったり。それほどまでに若島津は日向のことが好きなのだ。平静を保てないほどに…。
 でも浮かれてもいられない。若島津のこんな気持ちを露ほども知らない日向に、どうやったら自然に伝えられるだろう。
これはやはり若島津に愛の告白をさせるしかない。そうすればいくら恋に疎くて鈍感なあの日向でも、自分の気持ちに正直にならざるを得ない。
 そうして反町は思いきって、その作戦を実行した。

「午後練だけの土曜の前日はさ、いつも部屋を替わってたんだ。日向さんと。」
「え…。」
「どちらかってーと、おまえの方が積極的だった。一晩中日向さんのそばに居たいってカンジで。」

 ウソから出たマコトになることを信じ、これでもかとウソをつき続ける。反町の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

 

 

 これ以上ないというくらい赤くなった若島津はベッドの上で膝を抱えて黙り込んでしまった。ちょっと可哀想かな、と思いつつ反町も止まらない。

「お互いあまりしゃべらなくても、日向さんの肩にもたれてるだけでスゲー安心できるって言ってたぜ。その…以前のおまえは。」
「‥‥‥‥。」

 抱えた膝に顔を埋める。もはや耳まで真っ赤だ。

「手ェ握ったら、握り返してくれるのが幸せで嬉しいんだと。」
「…俺…そんな恥ずかしいことをおまえに…。」

 若島津はふるえる声で、反町に聞こえるギリギリの音量で呟いた。

「だってホラ、俺は恋愛のことならいろいろ、おまえらより経験あるし。フツーの恋愛話だよ、こんなの。」

 何人もいる女友達の誰かに聞いた恋のエピソードを、記憶の引出しから小出しにしながら、さも若島津がノロケたことのように話して聞かせた。
あまりにも自分の性格や行動パターンからはかけ離れた「過去の話」に、だんだんと他人事のように思えてきたのか、若島津は一番聞きたかった核心の部分に触れてきた。

「あのさ…その、俺たち…ど、どのへんまでいってたのかな…。」

 正直これが一番気になる。なにせ「恋人」として「付き合って」いるのだから。
すでにもうそれなりのことはしているかもしれない。いったい自分は日向とどこまで触れあっているのか…。
 日向への気持ちに目覚めてから、ぶっちゃけ何度も想像していた。あんなことやこんなことを。恋愛に疎いとは言っても、思春期まっただ中である。しかも健康な男子だ。心がカラダを思うようにコントロール出来ないことだってある。
そんなもて余した感情を、思いの通じた今、いったいどんなふうに表していたのだろう。
 しかしもちろんそんな事実はあろうはずがない。二人は付き合ってなどいないのだ。でも反町はできるだけリアリティを損なわないように、慎重に狂言を進めた。

「日向さん、奥手みたいでさ。なかなか先に進めないから思いきって、自分からキスしちゃったって。おまえ意外と大胆だよな、はは。」

 この時点でかなりリアリティに欠けるが、それでも若島津は勇気あるもう一人の自分の、まるで武勇伝でも聞いているような気分になっていた。

 

 

 

 一生告白なんてしないつもりだったのに、この1年でなにがどう変わったんだろう…。
日向を好きだという気持ちを、若島津はもうずいぶん前から自覚していた。幼なじみで家も同じ町内で、家族同士も付き合いがあって、しかも同性の日向を、ただならぬ感情で想い続けているなんて、極めて厳格な家庭に育った若島津にとって、それは著しく非常識なことだった。
でも「好き」という気持ちを消すことなんてできない。「なぜ」なんて自分でも分からない。恋は理屈ではないのだ。
 なにも考えずに触れることができたらどんなにいいだろう…そう悩みもした。気持ちが大きくなるにつれ欲も深くなってくる。けれど、おそらくは受け入れてもらえないであろう自分の気持ちを無理に日向に押し付けて、全てをぶち壊してしまう勇気なんて若島津にはなかった。
ずっとこのままで、日向の一番の親友でいられたらそれでいい。時々ふと沸き上がる虚しさとも、持病のようにうまく付き合っていけばいい。
そんな風に1年前の若島津は考えていた。報われようなんて微塵も思っていなかった。
 なのにどうして…。
ぽっかりと穴の空いた記憶をたぐり寄せようとして、胸がジンと痛んだ。

 

 

 

「よお。」
 9時を過ぎた頃、反町とほぼ入れ替わるように日向が若島津の部屋へやってきた。

「傷の具合はどうだ?」
「うん…もうほとんど、なんともないよ。」

 退院してから一週間、こんな風になんてことない会話すらもしていなかったことに、今さらながら気付く。日向は「そっか」と照れくさそうに頭を掻くと、反町のベッドに腰かけた。

「その…あれからちゃんと言ってなかったけど…、すまなかった。ゴメンな。」
「そんなこと…俺の方こそ…。」

 言いかけてハッと言葉を引っ込める。

「え?なに?」
「いや、なんでも。」

 付き合ってるのにそれらしいことができなくて、と言おうとしたが急に恥ずかしくなってやめた。視線を机に戻し、それまでめくっていた教科書を再び見つめる。しかし活字を目で追ってはいるものの、少しも頭には入らなかった。日向のどこか遠慮した、よそよそし気な態度に胸がざわつく。

(ほんとのこと言って、日向さんは俺のこと、どう思ってるんだろうか。)

 いくら自分が原因でこんなことになったからって、ここまで距離を置くこともないだろうにと、正直若島津は不安になっていた。
サッカーに対しての情熱的な執着を普段目の当たりにしているだけに、今、この冷めたような空気が自分に対しての思いと比例しているかのように思えてならなかった。

(俺が思い余って告白して…この人はすんなり受け入れてくれたんだろうか。それともまだ迷って…。)

 教科書を見つめながら、だんだんと気持ちが絶望的な方向へと一人歩きしていく。女々しいことを考えるなと頭の片隅では自分を叱咤しつつ、ネガティブな思考はとうとう最悪の言葉を引き出した。

(同情…なのかな)

 若島津は全身の力が抜けて、意識が崩れ落ちそうになった。

 

 

 

 パタリと教科書を閉じた指先がふるえている。若島津の様子の変化に気付いた日向は驚いて立ち上がった。

「どうした?気分でも悪いのか?」

 まるで腫れものにでも触るような日向の態度に、若島津はどうしようもなく悲しくなった。

「ごめん…俺、ちょっと…不安定で…。」

 涙がこみ上げて思わず声が震えてしまう。

「無理もねえよ、記憶をなくして平気でいる奴なんかいるもんか。」
(ちがう、そうじゃない!あんたが俺を不安にさせてんじゃないか!)

 こんなにそばにいるのに、肩にさえ触れてもくれない。やさしい言葉をくれながらも突き放されているような…。

「心配すんなよ、おまえには俺が…。」
「もういいよ。」

 とうとう胸に押し込めていた言葉が堰をきったように溢れ出てきた。

「気を使わなくってもいい。もう…こんなみじめな思い、たくさんだ。」
「え?」
「無理に俺に合わせてくれなくったっていいって言ってるんだよ!」

 若島津は目のフチを赤らめて、掠れた声で叫んでいた。言ってることの意味が理解できない日向は、返す言葉も見つからず、取り乱す若島津をただ呆然と見つめた。

「俺…俺はこんなに…あんたのことが好きなのに…こんなカタチで同情されて…。」

 あとはもう声にならなかった。涙が溢れて止まらない。声を出すまいと懸命にこらえながら、俯いて肩を震わす若島津を見て、ようやく日向は口を開いた。

「今…なんて…?」

 

 

 

 日向の、口をパクつかせながらの精一杯の問いかけも耳に入っていないのか、若島津は涙声で続ける。

「この1年で俺…ずいぶんあんたに迷惑かけたんだろうな。いっそはっきり断ってくれたらよかったのに‥!」

 話がよくつかめない日向は、しどろもどろしながらも若島津の口から飛び出した「日向さんが好き」という言葉を何度も頭の中でくり返した。

(好き…若島津が俺を…好き?…えっ、それって、そういう好きってことなのか?)

 あまりの動揺に思考がいったりきたりして、目の前で涙を浮かべる若島津を呆然と見つめていたが、ようやくこれは若島津の「告白」なのだということを、鈍すぎる日向もさすがに悟ったようだった。

「若島津…もう一度、…言ってくんねーか?」
「え…?」

 おだやかな日向の声があまりにも今の荒れた気分とはちぐはぐだった。若島津は思わず怪訝な顔で日向を見上げた。

「その…だからさ、す…『好き』って。」

 顔を赤らめながら真面目に言う日向の表情が、さっきまでとは全く違っていることに気付き、若島津の涙が止まった。

「ひゅ…日向さ…?」
「もっかい聞きたいんだって!おまえの口から『好き』って!」

 怒ったようにせがむ日向はまるで駄々っ子のようだ。しかしその大マジメな迫力に気押されて、若島津はひと呼吸おくと、ゆっくりと目を見てもう一度言った。

「好き…俺…あんたのことが…好…」

 

 

 

 言い終わらないうちに、日向は若島津を抱きしめていた。

「若島津…好きだ…お、俺も!」

 息もできないくらい強く抱き締められ、若島津はめまいを覚えた。そっと背中に手を回す。日向の鼓動が、手のひらにも、合わせた胸にも同じ速度で響く。
 なんだか反町から聞いた話とはちょっと違う…日向は奥手でなかなか前に進まないから自分の方が積極的で…。なんてことを思い出していると、ふと日向の腕の力が弱められた。
 日向の体温が伝って暖まった胸にひんやりと空気が流れる。背中をかき抱いていた熱い手がゆっくりと動いて、若島津の肩を掴んだ。ぼんやりとまとまらない気持ちのまま日向を見つめると、そこにはまっすぐで、痛いくらいに一途な瞳がはっきりと自分を写し出していた。

 

 

 

 ゆっくりと日向の首が傾けられ、若島津は反射的に目を閉じた。やわらかく、温かい感触が二人を包む。最初は遠慮がちに触れただけのキスも次第に熱を帯び、お互いあっという間に夢中になった。
とても奥手とは思えない日向の深く情熱的な口付けに、若島津は膝が震えそうになる。立っていられなくなりそうで思わず首にしがみついた。そんな頼りなげな若島津を支えるように、日向も腰に腕を回す。
何度も角度を変え、もっとお互いを知り尽くしたいといったように深く深く口付けあった。

(日向さん…。)

 トロンとした感覚に酔いしれて、このまま眠ってしまいたい…と思ったその時、若島津の頭の中でなにかが弾けた。

 

 

 

 思わず日向の胸を押し返す。

「ゴメン、いきなり…ビックリしたか?」

 甘い口付けに酔い、自分に身を任せきっていた若島津の突然の変化に、日向は少し胸が痛んだ。

「ううん…。」

 空返事をしながら、若島津の頭の中では1年前からつい一週間前までの、すっぽりと抜け落ちていた記憶が走馬灯のように蘇っていた。

(え…?俺…俺たち…付き合ってなんかいない)
「若島津?」

 しかし目の前にいるのは、熱い視線で射るように自分を見つめ、たった今まで情熱的に唇を合わせていた日向だ。戻った記憶も若島津にとって真実なら、今こうして体を支えるように触れる日向の掌も現実だった。
 そして仕掛人、反町の顔が浮かぶ。

(そうか…そういうことか。…反町のヤロ~~‥)

 まんまとハメられたと悔しい反面、どうしようもなく笑いがこみ上げてくる。

「なあ、どうしたんだよ、いったい。」

 眉間にシワをよせたかと思ったら今度は笑い出す最愛の人に、さすがの日向もわけがわからない。

「俺たちってさ、そんなに分かりやすいのかなあ。」

 一旦離れた体を、また引き寄せるように日向の肩に腕を回す。

「なにが?」
「…ううん、なんでも。」

 そう言って今度は若島津の方から唇を重ねた。

 

 

 

 若島津のベッドに二人腰かけて、どちらともなく身体を寄せあう。
若島津は日向の肩に頭を預け、その手は自然と日向の無骨な手に握られた。反町の、今となっては嘘っぱちのあの言葉たちが過る。

(安心する、か…。ほんとだ。こうしてるとすげーホッとする…。)

 反町の言った通り、若島津は今、このうえない幸福感で満たされていた。さっきまでの不安でみじめな気持ちがうそのように。
二人はこうしてお互いの体温を感じながら、今まで言えずにいたほのかな想いを、ゆっくりと言葉少なに伝えあった。
 男同士だからとか、そんなこだわりはもうどこかに消え去って、ただ若島津は日向を、日向は若島津を必要としているのだということを痛感する。自分達の恋は、きっとゴツゴツとした月面をドリブルしながら走るくらい困難なことなのかもしれない。
それでも今、確かに触れるこの温もりは絶対に手放せないのだ。大切にしたいと心から思った。

 

 

 

 それから。
検査の結果、傷も記憶もすべて完治との診断を受け、この10日足らずでの「若島津、記憶喪失事件」はめでたく幕を閉じた。
 部活動も無事復活でき、若島津は体を動かせることの喜びとありがたさを噛みしめているようだ。学校と寮の往復のみの生活から解放され、鈍りきった体を元に戻したいと言っては反町を半ば強制的に時間外労働(居残り)に付き合わせたりもした。
…理由は他にもあるのだけど。

「それはないんじゃない?オレは感謝こそされてもこんな罰を受ける覚えはないよ。」

 さんざん走らされ、ミニゲームでは監督にどやされてようやく解散、の後に若島津のキャッチング練習の為ボールを蹴り続けている反町はすでに半べそ状態だ。

「バーカ、誰が簡単に感謝なんかするか。こっちはただでさえ参ってたのに更に引っ掻き回されてだな。」
「でも終わりよければ全てよし、だろ?」
「終わりじゃないだろ。」

 まったく調子いい奴、とため息をつきながら、でも実は感謝していた。反町の狂言がなければ、きっと胸に秘めていた思いを一生ぶちまけることはできなかった。そして受け入れてもらえることも。
この先どんなカタチで自分達が進んでいくのか、若島津にも分からない。けれど、サッカーを選んで日向に付いてきたこれまでの自分に、そしておそらく目指すであろうプロへの道程に、少し自信と勇気が湧いたような気がした。

「あ~あ、オレがA定食おごってもらいたいくらいだ。」

反町のため息とボヤキが深まる秋の空に小さくひびいた。

2005.9.12~11.21