Eternal Position

 胸から下腹部にかけてぶち撒かれた飛沫をティッシュで拭う。
二人分のそれはとても1、2枚では取りきれず、すでに小さなゴミ箱はティッシュの山で溢れそうになっていた。というのも今晩、この作業を少なくとも3回は繰り返している。3回分の二人の精液が残骸となって燃えるゴミと化しているのだ。
 その半分の責任者である日向は、力尽きてベッドに沈んでいた。
 日向の所属する浦和レッズは今日、大阪でのアウェー戦を終えホテルで一泊、明日の朝の新幹線で埼玉へ戻るというスケジュールだ。しかし日向は宿泊せずに最終の新幹線に乗り込み、名古屋の若島津のマンションに有無もなく押しかけてきた。試合の為の移動だが、その場所によって互いの距離が縮まる場合、試合翌日のオフを利用して逢瀬を重ねるのが習慣となっていた。
 FWである日向の一試合の運動量は若島津に比べはるかに多い。それに加え長い移動距離だ。会うなり休む間もなく性交に及ぶなんて、常人ならまず考えもしないだろう。そんな超人的なパワーを持った日向も、さすがに3回目の絶頂で限界を超えてしまったようだ。うつぶせで、嚊に近い寝息をたてて爆睡していた。

「ったく拭きもしないで。誰がシーツ洗うと思ってんだ…」

 若島津が小さな声でボヤく。そんなこと、少し前までは気にもならなかったのに。ボヤいた後で小さな自己嫌悪に陥る。
 床に落ちていた下着を拾い上げ、緩慢な動きで身に付けるとベッドを抜け出した。リビングに行きテレビのリモコンを取り上げる。無意識にザッピングしていると、深夜のスポーツ番組にヒットした。今日のJの試合結果、そして現在の順位──。名古屋、浦和、共に10位前後を行き来している現状である。まだ1stステージの中盤とはいえ、実に中途半端な位置だ。今日の試合も、最下位のチームとスコアレスドローで勝ち点1を分け合うという不本意な結果だった。失点はなかったものの、得るものもない試合。乾いた溜息が漏れる。
 冷蔵庫からミネラル水のボトルを取り出し、再び寝室へ戻ると、日向が仰向けに寝返っていた。腕を頭の後ろに組み敷き、なにも纏わない下肢は大胆にも大の字に投げ出されていた。

「起きてたんだ…。水、飲む?」
「ああ、サンキュ。」

 ボトルを受け取ると喉を鳴らして一気に流し込む。そんな日向を尻目に、乱れたシーツをかき分け、自分の場所を探りながらのっそりと体を横たえた。気怠さとは違う、浮かない表情であることは一目で分かった。

「…どうした。今日の、良くなかったか?」
「…どっちの話?」
「どっち、って。」
「試合か、それともセックスか。」
「……」
「はっきり言うと、どっちもイマイチだ。」
「なんだよそれ、すげえイキまくってたくせによ。」

 日向が不貞腐れる。性交の後、言うべきセリフじゃないことは若島津だって分かっている。
だが、このところの二人というと、会えばセックス、セックスの為に会う、そんな逢瀬の繰り返しで、自分達はこんなことでいいのだろうかと迷いが生じ始めていたのも事実だ。
セックスが嫌いなわけじゃない。むしろ体を重ねる行為は心を満たしてくれるし、互いに愛し愛されているという確認の意味もある。
もちろん、この上ない快楽を知ってしまった体は、理性では抑えられないほど熱く悶えてしまう。
 今夜の交わりも、本当はイマイチだなんて思ってはいない。
 ただ、日向と自分の関係は、結局のところこんなものだったのだろうか、と。
 学生時代、栄光と挫折の狭間をゆくギリギリの精神状態の中、それでも毎日が充実していたあの頃が、今となっては輝かしく思えてしまう。
 そんな「今」が、果たして幸せだと言えるのだろうか。

「日向さんはさ、今の俺たちが充実してるって自信持って言える?」
「何を言い出すかと思えば…」

 やれやれといったふうに呟くと、日向は若島津の方へ寝返りをうった。
本能で生きている日向にとって、理論派の若島津のこうした問題提起はなかなか厄介なイベントだった。
どんなに頭をひねって答えても、最終的には若島津の緻密に組み立てられた論理でもってねじ伏せられてしまうからだ。
 そして若島津の言うことは決して間違いではないから、最後はおとなしく「そうだな」と頷くしかないのである。

「俺は充実してると思うけどな。15年ぶりに明和に戻ってお袋にも親孝行できてるし、週末には出来るだけこうしておまえと会って、二人の時間が持てて。今となっちゃイタリアでの8年間、よくガマンできたなって思うぜ。うん、やっぱおまえと一緒にいられる時間が増えたってのが一番だな。」
「誰が恋愛話しろって言ったよ。」
「あ?」
「俺が言いたいのはサッカー…仕事の話だよ。」

 ピンと空気が張り詰めた。日向の表情から、情事の後の弛んだ余韻が消える。

「今日出た順位、見た?俺のとこ10位、あんたは9位だった。偏差値50のユルユルの成績だよ。こんな中途半端な状況、あんたはなんとも思わないの?」
「言っとくが俺は上半期の得点ランキング…」
「どんなに点取ってようと、チームが勝たなきゃ意味がない。それはあんただって充分に分かってることだろ。」
「…うちより下位が偉そうに言ってんじゃねえよ。」
「ああ、そうだよ。あんたに説教できる立場じゃないことは分かってる。だから…」
「……」
「だから…心底充実してるなんて言えないんだよ…」
「若島津…」
「サッカーにおいての自分が冴えなくなると、日向さんとの関係も色褪せて感じるんだ…。食うか食われるか、いつもギリギリで…だけど燃えてたあの頃が最近やけに懐かしいんだ。恋愛でも、いつもあんたに飢えてて、ガツガツしてて…。色々と無茶もしたけど、心の底から幸せだった。」
「過去形かよ…」

 無理をせずともいつでも会えるという環境とその安堵感が、いつしかサッカーに対する情熱や緊張感をも奪っていったのだとしたら──。
二人の人生にとって、何を置いてもまずはサッカー、それが優先順位の不動の一番のはずなのに。
絶対にブレてはいけない根幹が今、見失われようとしているのではないか。

「お互い、勝っても負けても当たり前のようにセックスしてさ…。ここんとこ俺達、あんまりサッカーの話もしなくなったよね。」
「…そうかもな。」
「俺達がそうなってしまったら、もう、おしまいじゃないか…?」
「……」
「だから…俺、決めた。今季の優勝を条件に、あんたとはプライベートで会わないことにする…!」
「はあっ!?なんでそうなるんだよ!?」
「それだけじゃない、あんたのチームが優勝争いに絡みもしなかった時は、…そのまま別れよう。」
「ちょ、待てよ…正気か、おまえ。一方的すぎるだろ、それ。」
「日向さん、俺達もっと、サッカー馬鹿になろうよ…昔みたいにさ。」
「若島津…」
「俺は、そういうあんたに惚れたんだからさ…」
「…くっそぉ…。分かったよ!優勝すりゃあいいんだろが!今の倍、点取りゃウチのがどんだけザルキーパーでもチームは勝たぁな!」
「…燃えてきただろ?」
「…フンッ、勝手に言ってろ。俺は朝一で帰る!」

 日向はベッドの下に散乱していた服や下着をかき集めると、バスルームへと消えていった。サイドテーブルの置時計を見ると午前3時。始発の新幹線まではまだ時間がある。
 若島津は、日向が飲み残したミネラル水をゆっくりと口に含んだ。
 

 優勝するまで会わない──。しかも日向のチームの成績如何では別れるとまで言ってしまった。
もちろん、今後のお互いの躍進を信じているからこその豪語であるが、果たせなかった場合、男に二言は許されない。本当に別れることになってしまうかもしれないのだ。
 若島津の喉はカラカラだった。これからのこと、まずどうやったら順位を上げられるか、様々なことが頭の中を駆け巡る。

 一方日向は、湯船に浸かり長らく黙考していた。
 東邦を卒業して程なくしてイタリアに渡り、8年間を異国の地でプレイした。その間、度々Jチームからの熱烈なオファーを受けたが、より厳しい環境に身を置くことを選び続けた。
 27歳になった去年の夏、弟たちの独立、そして母親が大病を患ったこともあり、故郷の埼玉に戻ることを決意した。
 若島津との、いわゆる性的な関係はかれこれ10年以上続いている。プラトニックな付き合いを含めれば、恋愛関係としてはさらに長い。8年間の遠距離期間を経てもなお、関係が途絶えることはなかった。これからも、恐らく一生、二人はお互いをパートナーとして支えあって生きていくと信じていた。障害があるとするなら、各々の家族の理解が得られるかどうか、ただそれだけだろうと。
 まさか、自分の人生の肝であるサッカーに足元を掬われるとは。しかし若島津の言うことは、すべて真理だと思った。
二人の関係の原点、それはサッカーなのだ。何を置いてもまずはサッカーありき、それが自分たちの本質なのだと。
 目先の快楽に心が緩み、大事なものを見失おうとしていたのかもしれない。自分はもっと、飢えていなければならない。勝利に枯渇し、足掻き、獰猛にならなければならないのだ。
追い求めるのは「優勝」の二文字だ。
 気持ちの整理をつけ、両頬をバチンと叩いて気合いを入れた。
 風呂から上がると、リビングのテーブルにメモを見つけた。

『近くのカフェで時間を潰す。帰途、気をつけて。』

 会わないと決めたからには早速実行というわけか。なんと律儀な男だろうか。そんな堅物で融通の利かないところも含めて、日向は若島津に惚れているのだった。愛しい男を再び抱くために、ここは男を見せるしかないと、日向は腹を決めた。


 街路樹は所々黄色味を帯び始めていた。
10月下旬ともなると日が落ちるのも早くなり、ナイトゲームではひざ掛けやベンチコートを持参で観戦に訪れるサポーターもちらほら見られるようになってきた。
 リーグ戦2ndステージも15節を終え、残りわずか2試合。熾烈な上位争いが繰り広げられている中、日向の浦和は辛うじて単独首位をキープしていた。このまま勝ち続ければ年間勝ち点1位も夢ではない。
 今季からJリーグは11年ぶりに2ステージ制が導入され、1st、2ndそれぞれ17節ずつの計34節となっている。年間の試合数は従来と変わらないのだが、全日程を終えた後のチャンピオンシップでは、各ステージ1位の2チームに加え、年間勝ち点2位と3位も参戦となる。
最大4チームで行うノックアウト方式のトーナメントで1回戦と準決勝を戦い、その勝者が決勝で年間勝ち点トップのチームと対戦するという、少々まどろっこしいシステムになった。
ちなみにステージ勝者と年間勝ち点2位、もしくは3位が同一の場合は準決勝にシードされ、1回戦は2チームで行うことになる。さらに言えば、一方のステージ勝者が年間勝ち点首位と同一というケースもあるわけで、その場合は一足飛びで決勝へのシード対象となり、チャンピオンシップはより一層シンプルなものになるだろう。
 浦和の快進撃は1stステージ12節以降から始まった。中盤までは9位と出遅れていたが、監督降板やらコーチ陣の強化、そしてタイミングよく助っ人外国人選手の投入と、大きなうねりと共にチームの雰囲気が好転した。なにより、それまでも好調だった日向の更なる得点力アップがチーム全体の士気を高め、順位を押し上げたと言っていい。一時は低迷と噂された浦和だが、蓋を開けてみれば1stステージは2位という、まずまずの成績で一旦幕を下ろした。勢いはそのままに、わずか2週間のインターバルで開幕した2ndステージでも着々と勝ち点を重ね、現在に至る。

「この調子なら決勝シード、いけるんじゃないか。」
「いや、油断はならんぞ。16節でうちが万が一負けたとして、大阪が勝ったとすると、勝ち点が1点差になる。最終戦、あっちの相手は下位、うちは名古屋だ。名古屋はなんだかんだ3位に詰めてきてるし、今かなりやばいぜ。なにより若島津さんが絶好調で超こえぇ。」
「8試合連続無失点なんだっけ?マジか。こえぇな。」

 クラブハウスのジムルームでマシンを動かしながら、若手らの雑談である。レッグエクステンションで黙々と汗をかいていた日向がピクリと反応する。

「あっ、日向さんなら大丈夫っすよね。1stのホームん時はたしか…」
「取れてねえ。スコアレスだ。」
「でしたっけ…」

 気不味い空気が流れる。そんなことは意に介さず、日向は黙々と筋トレを続けた。
だが、頭の中ではあらゆる算段が繰り広げられていた。このままいけば若島津の出した条件の一つ、「優勝争いに絡む」というのはクリアできるだろう。
しかし残る条件は日向にはどうすることもできない。若島津が成し遂げるしか道はないのだ。
 しかしだ。ここまで来たら、やはり年間王者は誰にも譲りたくない。なにがなんでも自分たちのものにしたいと思ってしまう。だがそうなれば若島津自身の条件は果たされず、来季優勝するまで会わない!なんて言い出しかねない。
頑固な若島津のことだ。一度こうすると決めたことを、簡単に覆しはしないだろう。優勝と若島津。どっちなんて選べない。
いったいどうすればいいのか。頭の中でじりじり考えていても、答えは永久に出ない。そもそも日向の脳ミソはこうした煩雑な思考に向いていないのだった。


 セットしていたタイマーがありきたりな電子音を鳴らした。
 黙想から意識を戻すと、若島津はキッチンへ向かった。
コンロには土鍋がクツクツと静かな音をたてていた。蓋を開けると、おでんの匂いを纏った湯気が、少し伸びかけた若島津の前髪を揺らした。
「よし」と頷くと、二人掛けのダイニングテーブルへと運んだ。自然と顔がほころぶ。

「いただきます。」

 たとえ一人きりでも、そういった礼儀は欠かさない。手を合わせ、鍋に向かって一礼すると、まず取り皿に大根を装い一口。

「…しょっぱいな。」

 キッチンに戻り、おでん出汁の袋を見て納得した。無意識に二人分の分量を溶かしていたのだ。自分としたことが、こんな単純なミスを犯すとは。
溜息をつく気にもならず、わずかに眉間を寄せるに留まった。
気を取り直して食事を進める。大根が少々硬い。レシピ通りの厚さに切り、隠し包丁も入れたのに、なぜイメージ通りにいかないのだろう。日向が作るおでんはもっと味が染みていて、色が濃くてもこんなにしょっぱくはなかった。
 ここにきてようやく若島津は深い溜息をついた。何故おでんなんか作ってしまったのだろうと自己嫌悪に陥る。

 日向と会わないと決めて5ヶ月が過ぎた。
もちろん、日向のチームと対戦する日は否応無しに顔を合わせざるをえないが、プライベートな会話は一切なしだ。なるだけ目も合わせないように努めていた。
だが日向がゴール前に上がってきた時は心臓が破れるかと思うくらい高鳴った。日向の息遣いを近くで感じられることが、たまらなく嬉しかったのだ。
なにより、貪欲にボールに喰らいつく日向は獰猛で生々しく、若島津の胸を躍らせた。日向の全身からは、なにがなんでも勝ち点を奪いにいくという並々ならない気迫が発せられていた。刺し違える覚悟でゴールを阻止しなければと、体中の神経が研ぎ澄まされ、頭は最高潮に冴えまくった。
この感じ。あの日向小次郎と勝負しているという高揚感。たとえ私生活では距離を置いて触れ合うことができなくても、この男はこんなにも自分を魅了し、興奮させてくれるのだ。
改めて日向という男に惚れ直した瞬間だった。
 日向が帰国してからの一年、毎週のように互いを行き来し、どっぷりと甘い時間を過ごしてきた。その日々が恋しくないと言ったら嘘になる。
正直を言えば、自ら課した条件は無謀だったのかもしれないと頭を過ぎる。だが、これくらいのハードルを軽く越えるくらいでないと、常に自分の上を行く日向には追いつけない。愛されているからといって、自分に妥協したくはなかった。
胸を張って日向と肩を並べたい、いつだってそれが若島津の真の望みなのだ。
 次の16節で鳥栖に勝てば勝ち点が2位の大阪に1点差と迫る。大阪が負ければ2位に躍り出る。最終節の浦和戦が、まさに優勝をかけた天王山となるかもしれない。
啖呵を切って別れたあの夜から、いよいよここまで上り詰めてきたのだ。なにがなんでも優勝を逃すわけにはいかない。
 若島津はいてもたってもいられなくなり、夕食を早々に切り上げると、専属のキーパーコーチに連絡を取った。
この5ヶ月余り、時間外であろうと自費でコーチを呼びつけ練習を重ねてきた。8試合連続無失点はそんな努力の当然の結果と言える。
アポイントが完了すると、手早くウェアに着替え、車のキーを取って部屋を出た。


「兄ちゃん、若島津さんと喧嘩でもしてるの?」

 就職をして、最近一人暮らしを始めた勝が仕事休みに帰ってきていた。気を抜いている時に第三者から若島津の名を聞くと、やはり動揺してしまう。気取られないよう、いつもの低音で「べつに」と答えるが、頭皮にじんわりと嫌な汗が浮かんだ。
 勝が心配するのも無理はない。先日のサッカー番組でのことだ。若島津が連続無失点についてインタビューされていた。名古屋がじりじりと順位を上げてきたのは、勿論チーム全体の調子が良くなってきたことが第一であるが、無失点記録という若島津の功績もかなりのインパクトである。メディアがそこに注目しないわけがない。
なにか変化があったのか、との質問に、『ただ単に優勝への執着です。それしかありません。最終節まで1点も取られない覚悟です。特に、現在得点王の方、あなたには絶対ゴールは許しませんから。』と、不敵な笑みを浮かべて言い放ったのだ。バラエティ色の濃い番組だが、VTRでの若島津の発言にスタジオ内にも緊張が走ったようだ。
それくらい、若島津の目は本気だった。明らかに日向に対しての挑戦状とも取れる発言に、勝は敏感に反応したのだ。
 一方の日向はと言えば、この5ヶ月余り若島津の顔をまともに見ていないから、ここぞとばかりにそのアップの映像を凝視した。テレビ画面は太って見えると言うが、若島津はハイビジョンで映っても美しさに遜色がない。キメの細かい肌や整った目鼻立ち、むしろカメラでは撮りきれていない、日向しか知りえない美が画面の向こう側にある。
そんな、全てを知り尽くした若島津との関係存続をかけた決戦──。ふと現実に立ち返ると胃袋がごっそりと落ち込むような気分だ。

「今年、浦和が優勝したら俺も鼻が高いよ。半分は兄ちゃんの功績と言ってもいいもんな。」
「ああ、ぜってー優勝してみせっから任せとけ。得点王も確実に取る。」
「そういえば小次郎、この半年ばかり週末に出掛けなくなったのも、やっぱりチームのためなのかい?まっすぐ家に帰って来てくれるのは嬉しいけど…気持ちに余裕がなくなってきてるんじゃないかって、母ちゃん心配だよ。」

 母親が鋭い言葉を挟んできた。答えに窮していると、妹の直子が入ってきた。

「兄ちゃん、彼女と別れちゃったんでしょ。」
「えっ、兄ちゃん彼女とかいたの!?」
「いたに決まってるじゃない。イタリアから戻って週末はほぼ毎週のようにお泊りだったじゃん。あんたほんと鈍いわね。」
「俺はもう家出てたじゃんか。知るわけないよ。」
「別れちゃったのかい…?母ちゃん一度でいいから会ってみたかったわ。小次郎に彼女なんて…どんな女性だったの?ああ、蒸し返しちゃいけないかねえ。」

 母の残念そうな顔に日向はいたたまれなくなった。27歳にもなって世間的に浮いた話のひとつもないことを、母なりに気に病んでいるのだ。幼い頃から家族のためと頑張ってきた長男だから、独立したら自分の好きなように生きたらいいと願っていた。
しかし結局は今も自分が足枷になり息子の自由を奪っているのではないか。人が羨むほどに孝行すぎる息子が、逆に心配でならないというふうである。

「いや、別れちゃいねえよ。ちょっと訳あって、今は会えないだけだ。今シーズン結果が出れば、ちゃんとするから。」
「ちゃんとって、もしかして結婚…!?」

 直子が色めき立つ。勝と母は顔を見合わせ「ええっ!」とオーバーに驚いて見せた。本当のことを知ったら、その驚きは喜びとは対極の驚愕に変わるだろう。
それでも、今季の勝負がはっきりしたら、たとえ若島津との関係がどうなろうと、日向はこれまでの全てを告白しよう決めていた。


 チームの練習時間外でも体が鍛えられるように、日向は都内のスポーツジムに通っていた。
東邦時代のサッカー部の先輩がトレーナーをやっていて、日向が調子に乗ってオーバーワークしてしまわないよう適度なメニューを設定してくれる。なによりそこは個室がいくつかあって、一般の会員と顔を合わせなくて済むから有難い。
2時間ほどのメニューをこなし、サウナで汗を流していると昔馴染みの反町が偶然入ってきた。
今はFC東京在籍の反町も、そのジムの会員なのである。

「なんかすごい勢いだね、二人とも。」
「まあな。」

 反町は早速、日向と若島津の快進撃に触れ、遠い目をした。
青春時代、ともに同じ釜のメシを分け合った二人が、破竹の勢いでリーグ18チームの頂点を争っているのである。しかも年間得点王、8試合連続無失点のおまけ付きだ。
黄金世代と称された中に反町も一応入ってはいるが、この二人の場合はもう、黄金のさらに上をいく銀河系にまで達していて、反町にとってはもはや別次元の世界なのである。

「スゲエよなあ…俺んとこはもうとっくに天皇杯に切り替えよ。リーグ戦はまあ、10位以内に食い込めば御の字っつうか。」
「だらしねえな。」
「俺は命削ってまで得たいと思うものがないからなあ…健康で1日でも長くサッカーでメシが食えりゃ、それでいい。」
「まあ、それも大事なことだがな。」
「で、今回は、何?あんたに火を付けたの、やっぱ若島津?」
「……」
「二人が羨ましいよ。お互いを奪い合って、支え合って…そういう関係、そうそう築けるもんじゃないしね。」
「あいつは難しく考えすぎんだよ。求め合うだけの関係じゃつまらねえんだと。ったく、ふざけんなって話だよな。俺たちがくっついたのだって、奇跡みたいなもんなのによ。」

 奇跡──。その言葉に甘酸っぱい気分になる。
若島津も自分のことを好いてくれていると知った時の、あの感動と衝撃は今も忘れない。あれはまだ中学2年の時だった。心も体もまだ幼くて、長く見つめ合うことすら照れ臭くて、二人きりでいる時に手を繋ぐのが精一杯だった。中3の全国大会の後に初めてキスをして、高1になったばかりの頃、やっとの思いで性行為にまで発展した。互いに触れ合い達するだけの拙い行為だったが、それだけで世界がガラリと変わったような気がした。
 サッカーを通して知り合った幼い二人が、徐々に惹かれ合い、一線を超えてしまうまで互いを思い続けることを、奇跡と呼ばずしてなんと言うだろうか。

「そうかもしれないけど…あいつなりに不安なんじゃないかな。男ってほら、愛情と体の相性を履き違えるとこあるじゃん?とくに日向さん、昔っからガツガツいっちゃうタイプでしょ。愛してるぅ〜!なんて言いながらすぐ押し倒しちゃうみたいなさ。若島津はどっちかっていうとそういうんじゃなくて…。だから多分、あんたの愛を試したいんだよ。どんな高い障害でも、乗り越えてきて欲しいって願ってるんじゃないか。」
「だとしたら女々しい奴だ。そこらへんの女と変わんねえじゃんか。」
「そこらへんの女が8試合連続無失点で、獣みたいなあんたにケンカ売るかな。」
「……」
「俺からすれば二人とも獣だけどね…」
「あいつは俺にとって、最高のパートナーなんだ…失いたくねえ。」
「日向さん、弱ってんなあ…」

 反町は愉快そうに笑った。そして「もう限界!お先に」と言ってサウナを出て行った。学生時代から二人の関係を知る反町だからこそ、本音も吐露できる。時々こうした俯瞰目線でズバズバものを言ってくれるのも、日向が気の置けない友人として信頼している所以だろう。
 壁掛け時計の秒針の音をじっと聞きながら、最後に見た若島津の笑顔を思い出そうとした。浮かんだのは、今シーズンが始まろうとしていた初春、二人で行った温泉宿で、今年の展望を語り合った時の顔だった。日向が「俺がチームを優勝に導く」と言った時に見せた、輝くような笑顔。「俺だって負けない」若島津はそう言って首に腕を回し、キスをしてきた。
日向はその時、珍しく自分からねだってきた若島津に興奮し、その夜何度目かの行為に没頭した。だが、若島津の思いは別のところにあったのかもしれない。
「俺たちもっと、サッカー馬鹿になろうよ」──若島津の言葉が今になって、じわりと心に波紋を広げた。



 駅前のシティーホテルの宴会場にセッティングされた、形ばかりの打ち上げを終え、選手たちは足早に散会していった。
 2ndステージ17節、全日程は終了した。最終戦、結果はスコアレスドロー。勝ち点わずかに及ばず、名古屋は浦和に惜敗を喫した。首位争いに敗れ、ステージ2位の結果に終わった。ホイッスルが鳴り響いた後、選手たちはピッチの上で膝をつき項垂れていた。1stステージ中盤の、偏差値50の順位からよくぞここまで上り詰めてきたものだと、若島津は仲間たちを心の中で賛辞した。そしてこの結果を冷静に受け止めていた。
 試合後の挨拶では、日向に握手を求めた。ゆっくりと差し出された手を握ると、自然と笑顔がこぼれた。
日向の顔を見つめられたのは、あの夜以来だ。そんなサバサバとした若島津とは対照的に、日向の目は赤く血走っていた。歓喜のためか、それとも憤怒か。ただ黙って若島津を見つめ返していた。
 ステージ首位は逃したものの、名古屋にはチャンピオンシップ出場のチャンスが与えられた。年間勝ち点2位、これもまた立派な成績であるが、まだ年間王者の望みは潰えていない。2位の結果に甘んじ、心を緩めるわけにはいかなかった。用意されていたシャンペンシャワーはお預けにして、アルコールを少し含みながらの立食ミーティングは1時間程度でお開きとなった。

 タクシーで自宅マンションへ帰宅した若島津は、エントランスで思わぬ人物に遭遇した。

「日向さん…」
「…ウス。」
「…いいの、こんなところにいて。打ち上げとか…」
「ちょっとは顔出したぜ。テレビは明日のやべっちで勘弁してもらった。」

 各局のニュース番組では浦和の選手たちがひな壇を作り、テレビの前の視聴者に優勝報告を行っているであろう今、日向は一人、若島津のマンションを訪ねていた。
後先考えず、本能で行動してしまうのは相変わらずの悪い癖だ。しかし日向はどうしても今夜、若島津に会いたかった。たとえ門前払いを喰らっても行くしかないと思ったのだ。
 日向は、若島津の言い出した条件を見事に果たしてのけた。優勝争いに絡んだのみならず、ステージ首位と年間勝ち点首位の両方を手に入れた。大手を振って「会いたい!」と叫んだって許されるはずなのだ。
しかしその結果により、若島津は自らの条件を果たすことは叶わず、逢瀬を拒絶されるのは必然だった。

「なあ、部屋、入れてくんねえか。」
「…持って来なかったの、合鍵。」
「いや、持ってはいるんだが…」

 日向が喋り終わるのを待たず、若島津はオートロックを開錠した。自動ドアが開くと、入ってくるよう視線で促した。予想外の対応に日向は一瞬戸惑ったが、おずおずと若島津の後をついて行った。


「住人…誰にも見られなかった?」
「ああ、居たの10分くらいだしな。」
「顔も隠さないで、無防備すぎる。」
「う、スマン。」

 エレベーターに乗り込み、短いやり取りを交わしてるうち、気がつけば若島津の居住する10階に到着していた。
玄関のドアを開け、先に日向を中へ入れる。狭い三和土は二人の大男で一気に渋滞した。
息遣いが聞こえるほど二人が接近したのは半年ぶりである。日向からは、試合後に浴びたらしいシャワーのボディソープの香りがした。動揺を悟られないよう無表情をきめ込んで、ライトのスイッチに手を伸ばす。その腕を日向が掴んだ。

「若島津…」
「…優勝、おめでとう。やっぱあんた、さすがだ。」
「なあ、もういいだろ。これ以上、おまえは何を望む?俺たちは充分やりきった。それでいいじゃねえか。」
「……」
「俺はもう限界だ。会わないなんて言わせねえ…」

 日向は一方的にまくし立てると、若島津を荒々しく引き寄せ、抱きしめた。
肩に掛けていたスポーツバッグがずるずると足元に落ちる。若島津はだらりと腕を下げたまま、言葉なく日向の抱擁を受け止め続けた。冷たかった耳朶が首筋に触れ、温もりを取り戻していく。荒かった呼吸が整い、静かなリズムを刻む。ジャケット越しに響く鼓動が速度を落としていく。日向の全てが愛しくてたまらない。

「…来てくれて嬉しいよ。俺もたぶん、限界だった…」
「若島津…」
「思ってるほど俺は、強くなかった…自分が嫌になるよ。」
「バカ言え、おまえは強い。強すぎるから、俺は参ってんだ。」
「日向さん…」
「強敵だけど、最高のパートナーだ。」



 半年ぶりの性交はまるで10代の頃のように激しく、そして脳天を突き抜けるようなオーガズムに何度も体が戦慄いた。絶頂に向かって腰を蠢かす、日向の恍惚とした表情が一瞬、ゴール前に猛然と飛び込んでくる獰猛な顔と重なり、若島津の性は今までにない程の興奮にスパークした。

 羽根布団に包まり、生肌を摺り寄せながら事後の余韻に浸る。静まったはずの血流が、時折思い出したようにピクリと疼くが、今はただこうして触れ合っていたい。
 久しぶりだからか、それとも羞恥を忘れいつもより派手に喘いでしまったせいか、甘いピロートークが逆に気恥ずかしく、敢えて二人は色気のない会話をポツリポツリと交わした。

「チャンピオンシップは、うちが獲るつもりだから。」
「なんだ、まだ諦めてないのか。」
「油断してると寝首を掻かれるぜ?」
「おまえにか?色仕掛けなら大歓迎だがな。」
「ばーか…」

 軽口をたたきながら、日向は胸に秘めたある決意を今言うべきか逡巡していた。
生涯をともに生きようと決めた恋人の存在を、家族に明かそうと思っていることを。自分が同性愛者であること、そしてその相手が皆もよく知る若島津であるということ、すべて隠しだてなくカミングアウトして、二人の関係を理解してもらいたい。
若島津が自分にとっていかに大切な存在であるか、どれだけ素晴らしいパートナーであるかを、家族には知っておいて欲しいのである。ただ、若島津がそれを望むかどうか。迷う理由はそこだった。
 若島津の長い髪を指先で弄びながら、唇を寄せる。

「次、移籍する時は、おまえと一緒のチームにする。」
「フ…やだよ。週一で会うくらいが丁度いい…」
「二人で優勝争いしなくて済むだろ。」
「スリルがあって、いいと思うけどな…」
「二度とゴメンだな、今回みたいなのは。」
「うん…」
「…なあ、シーズン終わったらよ、おまえのこと…」
「…うん?」

 体力が尽きてきたのか、若島津の反応が緩慢になってきた。
日向は目を細め「なんでもねえよ」と囁くと、若島津の肩に腕を回し抱き寄せた。
しばらくすると静かな寝息が日向の片胸に温もりを作り、それは次第に日向のまどろみを誘うのだった。

2015.3.1  







*珍しく後記です*
この話はずいぶん前に漫画で描くつもりでプロットを立てていたものですが、かなりのページ数になりそうなのと、私の画力では描ききれないのでは…とヘタってしまい、何年もファイルの中で眠っておったのです。で、最近プロット類の整理をしていて発見しまして。読み返してみたら、やっぱり書いてみたいな〜と。形は文字になってしまいましたが、当時脳内で妄想していただけの二人が、ようやく動いて物語を奏でてくれたという感じです。
サッカー選手の1年間は、リーグ戦の他にもカップ戦やらACLやら代表招集やらで、本当はもっとスケジュールが混み混みなんですが、それを全部書いていたら話が進まないし、私の能力では到底まとめきれないので、色々と割愛させていただきました。ヘタレですみません。
あと、あんまり試合の詳細なんかを書き込んでも、コジケン色が薄れてしまう気がしたので、適当なところで切り上げました(笑)やっぱり結局のところイチャイチャする二人が読みたいからね。
試合シーンが尻つぼみに感じてしまうかもしれませんが、それは「おれはコジケンが書きたいだけ」なのでお見逃し下さい。