デイズ

01

 グランドに怒号が響きわたった。キーパーコーチの声だ。
また若島津が怒鳴られている。手堅く堅実がモットーの東邦ディフェンス陣の中で、若島津のプレイスタイルはあまり理解されていない。飛び出し過ぎだとか、無駄な動きが多過ぎるだとか、とにかくしょっちゅう叱られていた。
辛抱強いあいつは、どれだけ怒鳴られようと顔色ひとつ変えずコーチの指示に合わせる努力をしている。見込みがあるからこそ厳しくされるのだろうが、時に見ているこっちの方がいたたまれなくなってしまう。
俺は初っぱなからレギュラーを約束されてここへ来たが、あいつの今年の夏はスタンド観戦。ベンチにも入れてもらえなかった。俺から見れば、体格の差こそあれ今のレギュラーのキーパーに実力で負けているとは思えない。メンバー表が年功序列で作られているとしたら全くバカバカしい話だ。
 しかし俺にはどうすることも、何の力にもなれない。ただあいつが怒鳴られるのを黙って見ているしかないのだ。準優勝で終わった夏の大会よりも、なんだか精神的にこたえる気がした。

 冬休みに入り、朝から夕方までサッカー漬けの日々。それも明日までで、一応東邦サッカー部にも年末年始の休暇がある。その間実家に帰るヤツが殆どだが、申し出れば寮に残ってもかまわない。
帰っても何もないが、若島津が帰るなら一緒に帰ろう。そう思って予定を聞こうとあいつを探したが見当たらない。もうすぐ消灯だから部屋にいれば戻ってくるだろうが、なぜだか気になった。人気のなくなった廊下を行ったり来たりしていると、どこからともなく冷たい空気が流れてきた。

(どっか開いてるのかな)
 非常階段の方へ歩いて行くと、ドアがわずかに開いていた。

「若島津」

 あいつはこの寒い中、膝を抱えるようにして階段に座り込んでいた。

「おまえ、何してんだよ。風邪引くだろ?」
「……」

 話しかけても若島津は振り向きもしない。無視されたみたいでムッときた俺は力づくであいつの肩を引っぱった。そしたら…

「なっ、なんでもないってば!」
「…泣いてるのか?」

 我ながら無神経な質問だと思った。男が隠れて泣いてるところを見られて格好良いわけがない。気付かないフリをして退散するのがよっぽど親切だろう。でも、ほっとけなかった。
俺は震え上がるような冷たい鉄の階段に、あいつに寄り添うように腰かけた。触れた腕が氷のように冷たくて、俺はびっくりして思わず両腕であいつの体を抱き寄せた。

「バカヤロ。こんなに冷やしやがって…」
「…」
「部屋に帰ろう」
「いやだ…反町と島野がいる。誰にも会いたくない」

 俺達1年生は4人部屋だ。幸い同室のメンバーは気のいいやつらで、初めての寮生活でも難無く溶け込むことができた。でも若島津はわりと神経質だから、もしかしてちょっとは無理をしているのかもしれない。普段の冷静で大人びた若島津からは想像できない、駄々っ子みたいな横顔を見てそう思った。

「じゃあ、涙が引くまでな」

 若島津の涙の理由はなんとなく解った。どんなに頑張っても上手くいかない、結果が伴わない日々の苛立ちと焦り。結局なにもできないまま休みを迎えるのが自分でも腹立たしいに違いない。

「俺…家に帰りたくない。今のままじゃきっと…連れ戻される」
「若島津…」
「俺…父さんを説得する自信、なくなってきた…」
「バカ、しっかりしろよ」
「日向さんと一緒に居たいってだけじゃ、ダメなのかな…ここに居ちゃいけないのかな」

 なんだろう。急に胸がドキドキしてきた。腕の中でこんなセリフ言われたら、なんだか錯覚してしまいそうになる。まるで女のコの告白を聞いてるみたいだ。そんなワケはないのだけど。でも‥‥‥。

「かまわねえよ。ずっと俺のそばに居ろ。チャンスは必ず巡ってくる」
「……」
「俺だって、おまえがいなくなったら…」

 いなくなったら…。
この顔が見れなくなる。この声が聞けなくなる。想像しただけで胸がぎゅうっと締め付けられた。

「ダメだ、そんなの」
「日向さん…」
「ダメだ」

 絶対手放したくない。こいつは俺のキーパーだ。若島津と一緒じゃなきゃ、俺は今以上の男にはなれない気がする。
力一杯抱き締めると、冷たい頬が触れ合った。
 その肌は、俺にとってかけがえのないもののように思えた。


02

 この冬、俺達は実家へ帰らず寮で年を越すことにした。
そんなこと言わず帰って来いと、おふくろに電話でさんざん言われたけど、若島津を一人にして帰る気にはどうしてもなれなかった。もちろん若島津も電話口で相当揉めていたが、なんだかんだと理由をつけてどうにか留まることを許されたようだ。
寮生たちがいなくなり、心なしか部屋の温度が低く感じる。ガラにもなく人って温かいんだなとしみじみ思った。

「俺にかまわず帰ってよかったのに…弟さん達、ガッカリしてたでしょ」

 食堂で向かい合って晩飯を食べながら若島津が言った。

「べつにどうってことはねえよ。俺が帰らなければ、あいつらのお年玉がその分増えるからかえっていいんだ」
「…」

 ヤツがちょっとだけ微笑んだ。一昨日の夜、俺に泣き顔を見られたことを気にしてかずっとぎこちない表情だったから、その顔を見て俺も少しホッとした。

正直、弟達のことよりも今の俺にとっては若島津の方が大事だった。俺がそばにいてやらなきゃいけない気がして‥。俺も残ると言った時のあいつの泣きそうな顔を見てなおさらそう思った。

「明日、シュート練習付き合ってくれよ。せっかくだしさ」
「…俺でいいんですか?」
「おまえがいいんだよ。おまえは俺のキーパーなんだから自信を持て」
「…はい」

 はにかむように下を向いて食事を口に運ぶ若島津が、なんだか可愛く思えてしかたがなかった。
実際、こうして向かい合ってマジマジと顔を見たことなんか今までなかったから、意外に整ったきれいな顔をしているということに改めて気が付いた。つい手を止めて見蕩れていると、だんだんとあいつの顔が赤くなった。

「あの…なんですか?食べづらいんですけど」
「い、いや、なんでもねえ」

 急にドギマギして慌てて飯をかき込んだ。

談話室でなんとなくテレビを見て、消灯時間も迫った10時前には部屋へと戻った。いつも以上にひんやりと感じる室内に体が縮こまる。布団も冷たそうだ。
 若島津がクローゼットを開けてなにやらゴソゴソ探している。

「どうした?」
「ん…カイロ。買い置きしてたんだけど‥‥昨日のでおしまいだったのかな。まいったな」
「おまえ、毎晩カイロ使ってんのか?」
「足が温まらないと寝れないんです、俺」
「じゃあ、こっちで一緒に寝ようぜ。狭いけど」
「えっ?」

 何気に口から出たセリフに自分でも焦った。つい弟達にそうしていることを思い出し、考えなしに口走ってしまったが、中1にもなって同級生と一緒の布団に寝るなんてちょっと恥ずかしいかもしれない。変な意味はないのだと弁解するのもおかしい気がして、また引っ込みもつかなくて俺は黙ってあいつが断ってくるのを待った。

「…いいんですか?」

 てっきり断られるつもりでいた俺は面喰らった。

「俺はありがたいですけど…」
「あ、ああ。かまわねえぜ」

 意外だった。マジで驚いた。若島津が他人の布団に抵抗なくもぐり込んでくるなんて。

「ほらよ」

 できるだけ端っこに詰めてあいつのスペースを空けてやり、布団をめくって招き入れた。小さなシングルベッドに枕がふたつ、こぼれそうに並ぶ。

「お邪魔します…」
「ひぇっ!冷た!おまえホント冷てえぞ!大丈夫かよ」

 一瞬触れた足先があまりに冷たくて、俺は強引にその足を自分のふくらはぎの間に挟みこんだ。

「え、ひゅ、日向さんっ!いいよ、そんなこと」
「温ったまらねえと眠れないんだろ。こうやってるのが一番早い」
「で、でも…」
「弟達にもよくやってた。俺、体温高いみたいだから効くぜ」
「…うん…あったかい」

――こんなふうに笑う若島津を、ほんとに久しぶりに見た気がする。
こいつの笑顔ひとつで、なんで俺はこんなに幸せな気分になるんだろう。
 わけもなく若島津を抱きしめたいという衝動にかられ、そんな自分に戸惑った。


03

 2年になり、最初の他校との練習試合で若島津はレギュラーに抜擢された。
その試合をきっかけにようやく監督からも認められ、キーパーコーチも少しずつではあるが若島津のプレイスタイルを生かす方向に指導方針を見直してくれるようになった。前のような怒鳴り声もあまり聞かれなくなり、若島津の顔も以前より自信に満ち、生き生きとしているようだ。

「日向さんと食べた年越しそば、美味しかったな」

 学食でそばを注文したあいつが、麺をすすりながら言った。

「家以外で正月を迎えたのなんて初めてだったからな。俺もアレはなんか特別な味がした」
「あの時、日向さんが一緒にいてくれなかったら、今頃俺は実家に逃げ帰っていたかもしれません」
「バーカ。んなわけねえよ、おまえに限って」

 夏の大会に向けて順調に滑り出した東邦サッカー部で、俺達は文字通り充実した日々を過していた。
ただ、寮生活においては何か物足りなさを感じていた。
若島津と部屋が分かれてしまったのだ。
 進級と同時、2人部屋にランクアップしたのはいいが、あいつは島野と、俺は反町とというペアに分かれた。別に反町とも上手くやっていたし、何も不都合はないのだ。しかし、なにか胸のあたりにポッカリと穴が空いたような‥‥。
原因をたぐり寄せようとすると、若島津と同じ布団で眠ったあの晩に行き当たった。
あいつの足がほかほかに温まり、静かな寝息が聞こえ始めても、俺は足の間に挟んだあいつを離す気にはなれなかった。若島津の安心しきった寝顔を見ると、幸せな気持ちになれた。
あの時の充足感が忘れられない。
もしまたカイロがなくなった時、島野のヤツが同じように「温めてやる」なんて言ったら、あいつは島野のベッドに平気でもぐり込むんだろうか?
バカげたことを想像して、なぜか島野に対し猛烈な怒りが込み上げてくる。
これじゃまるで嫉妬だ。なんで俺が若島津をめぐって島野に嫉妬しなきゃならないんだ?どう考えてもおかしな話だ。だけど若島津が他のヤツのベッドに眠る姿はどうしても堪え難い。‥あくまでも想像だけど。

「どうしたんですか?飯、冷めますよ」

 若島津が俺の顔を覗き込んだ。

「わっ!なんでもねえよ」

  なんだか急に若島津の顔がまともに見れなくなった。…自分で自分が情けない。


04

 万年ナンバー2──。都内近郊での練習試合で囁かれるイヤミだ。
とくに武蔵との顔合わせでは風当たりが強い。ヤツらを蹴落として全国大会に進みながら結局は大空翼のいる南葛には勝てないからだ。

 今年も決勝で敗れた。総合力でもパワーでも決して劣っているわけじゃない。まして今年は若島津がキーパーを務めたのだ。なのに結果は2位。準優勝で幕を閉じた。
大会が終わってしばらくは、俺も若島津も口数が少なくなっていた。東邦を優勝へ導くという条件のもと、特待生として迎えられた俺はもう後がなくなった。来年、結果を出せなければクビになる確率は高い。
一方若島津も家の方から色々言われているみたいだった。
 この秋、空手の昇段試験を受けさせられたらしいのだが、それが見事合格。反対に、将来道場を継ぐことになっているヤツの兄貴は落ちてしまったそうなのだ。オヤジさんとしては若島津に一刻も早くサッカーをやめさせ、空手に戻って欲しいというのが本音らしい。全国制覇を誓ってここへ来たが、一向にその目標は果たせないままじりじりと年月は過ぎる。
電話口で帰る帰らないの押し問答をしている若島津を何度見たかしれない。その度にあいつは頑固を貫いて、受話器を乱暴に下ろしていた。
若島津を手放さないためにはまず俺がもっと強くならなければ。とにかく勝って、優勝することしかない。
家族と揉めるあいつを見る度、自分の不甲斐無さが情けなくなる。

 新入生にタケシを迎え、今年の縦のラインは安定したものになると手応えを感じた。
そんな春先、若島津がいかにも気の進まない顔で話しかけてきた。

「今度の日曜、俺、実家に行かなきゃならなくなって…すいません」

 一日部活を休むという申し出だった。

「…空手のことか?」
「…いえ。親戚の法事なんです。門限までには帰りますから」

 そう言って若島津は無理に笑顔を見せた。あきらかに理由は他にある気がしたが、俺はそれ以上は聞かなかった。

 その日の部活、俺はひどく集中力を欠いた。原因ははっきりしていた。
ただ若島津がいないというだけでこんなにも気分が乗らないなんて。グランドの横のキーパー練習場に目をやっては、あいつがいないことを思い出す。しかも一度や二度ではなかった。いないと分かり切っているのに、何度も同じことをくり返す。
そうしているうちに俺は気付いた。いつも若島津を目で追っていたことに‥。それも、無意識に。
自信に満ちたしなやかな動きでボールを追う若島津を、俺はいつも目の端に置いていたのだ。知らず知らずのうちに、あいつの姿は俺を力付けていた。
もしも今日だけでなく、ほんとに若島津がいなくなってしまったら──。
 その時の自分を想像し、俺は胸を掻きむしられるような不安を感じた。


05

 部活を終え帰宅すると、すでに若島津は寮に戻っていた。
玄関のネームプレートが外出の赤から黒に変わっていて俺はホッとした。
 今年度から再び若島津と同室である。俺は、自分と若島津の部屋へと急いで階段を駆け昇った。
わずかに開いたドアをそっと押して中へと入ろうとすると、若島津は机に頬杖をつき、なにか思いつめたような顔をしていた。声を掛けそびれてつっ立っていると、気配を感じた若島津が振り向いた。

「おかえりなさい」
「ああ、おまえもな。…どうかしたのか?」
「…なんか疲れちゃって。ウチって親戚多いから、会った事もないようなオジサンの相手したり、お酌したりとか」

 そう言って苦笑いを浮かべた。

「ここが一番落ち着くな…。今はもう、ここが俺の帰る場所みたいです」

 いつになく俺の目をじっと見つめて言った。疲れているせいなのか、若島津の目は潤んでいるように見えた。
俺の方も、若島津のいない一日があまりにも空虚でつまらなくて、感傷的になっていたせいか、その目をじっと見つめ返した。

「そうだ、ここはおまえの場所だ。どこに行っても、必ず帰って来いよ」

 はにかむように微笑む顔があまりにかわいくて、俺はドキリとして目を逸らした。

 その夜、春先にしてはちょっと冷え込んでいた。
例のごとくクローゼットからカイロを取り出していた若島津に声をかけた。

「こっち来いよ。久しぶりに温っためてやるぜ」
「…狭いですよ?俺も日向さんも、あの頃から10センチ以上デカくなってるんですから」
「…そうだな。さすがにむさ苦しいか」

 そうだよな。俺達はどんどん成長して心も体も大人へと近づいている。いつまでも犬っコロみたいにじゃれ合うわけにもいかなくなってくる。そう思うと、どうしようもない寂しさを感じずにはいられなかった。
頭の後ろで腕を組み目を閉じる。今日の俺はどうも感傷的になり過ぎてるみたいだ。
ひとり密かに落ち込んでいると、頭の横にバサッと何かが置かれた。

「お言葉に甘えます」

 若島津がちゃっかりと枕を置いて、俺の布団にもぐり込んできた。

「もうちょっと詰めてくださいよ」
「あ、ああ」

 俺は思わず顔がニヤけてしまった。

「やっぱり、日向さん温ったかい…」

 遠慮がちに足先を俺の足にくっつけてくる。冷えきったヤツの足を以前と同じようにふくらはぎに挟んでやった。

「…島野とも、こんなことしてたのか?」
「すっ、するわけないですよ!やだ、考えられない」
「俺とならいいのか?」
「……」

 心なしか若島津の顔が赤くなった。答えを考えあぐねてる風だったが、ようやくぽつりと自信なさげに呟いた。

「日向さんは……幼なじみだから」

 幼なじみと言ったって、俺達が出会ったのは小5の時だ。他のやつらとそう大差はないのだが、若島津にとって俺がちょっとは特別な存在なのかと思うと嬉しさが込み上げた。
お互いの熱が伝わりあい、温もりとともにまどろみかけた頃、若島津が小さく呟くのを遠くに聞いた。

「日向さん…今度こそ絶対、優勝しましょうね…」

 あたりまえだ、と返そうとしたが、眠気に押されて言葉にはならなかった。


06

『牙の抜けた虎』──

 吉良監督に言われた一言に俺は打ちのめされた。
都大会での武蔵との決勝、胸を押さえてうずくまる三杉を前に、俺は立ち尽くしてしまった。
たしかに前の俺ならそんな三杉を弾き飛ばしてでもボールを奪っただろう。でも今の俺にはそんな非道なプレイを選択することはできなかった。いや、出来なくなっていた。
人の温かさを知ってしまったからだ。
その温もりを失うことに臆病になってしまったのだ。

 もっと自分を追い込んで、ハングリーさを取り戻せ。
吉良監督はそう言って、自分が開いているサッカースクールの住所と電話番号を書いたメモを俺の手にねじ込んで去って行った。
 沖縄…。メモの間にはぐちゃぐちゃに折り曲がった一万円札が数枚、挟んであった。
全国大会で優勝する為にはもうここへ行くしかない。そう思い込むことしか出来なくなって俺は決心を固めた。
 荷物を取りにロッカールームに戻ろうと振り向くと、若島津が立っていた。

「…どこに行くんです?」

 吉良監督とのやりとりを聞いていたらしい。険しい顔で問いつめるように聞かれた。

「…沖縄だ」
「冗談でしょう?…学校はどうするんです!?部活は!?」
「本戦までには必ず戻ってくる」
「だけど!そんな勝手な事したらあんた‥‥っ」
「どうしても!強くなりてえんだよ!今よりももっと!」
「…お…俺は…どうすればいいんですか‥?」
「…みんなを頼む」

 これ以上若島津の顔を見ていたら行けない気がして、俺は荷物を諦めそのまま出口へと歩き出した。

「…日向さん…っ」

 涙を含んだ悲痛な声だった。
俺は足を止めた。そして振り返ると大股で若島津のところへ駆け寄った。

「……!」

 自分でもワケが分からない。ただ無我夢中で、俺はあいつの唇にキスしていた。
乱暴に掴んだ肩から力が抜けていく。若島津はおとなしくされるがままになっていた。
唇を離すと伏せられていた瞼がゆっくりと開く。呆然と俺を見つめる瞳は涙で潤み、揺れていた。

「…ごめん…俺を信じて、待っていてくれ」

 トンと手を離すと、ヤツはふらりとよろめいた。
 そして俺は再びきびすを返すと一目散に走り出した。走って走って、もう決して振り向かなかった。


07

 何度も挫けそうになった。
沖縄の海は台風で荒れ、波が俺の足を掬っては砂の上へ叩き付けた。
こんなことをしていて、本当に俺は強くなれるのだろうか。あの大空翼を制して日本一になれるのだろうか。
ボールを蹴っていれば思い出しもしないのに、夜、横になり眠りに付こうとすると大きな不安に襲われる。

(若島津……)

 今頃どうしてるだろうか。俺を黙って行かせたことを、監督にどやされてはいないだろうか。
あいつの為にも俺は挫けるわけにはいかない。誰もが腰を抜かす程のシュートを完成させ持ち帰らなければならない。
あいつはきっと、信じて待ってくれている……。

 重ねただけの、柔らかい唇の感触が今もリアルに残っていた。なぜあんなことをしてしまったのか、空港への電車の中で必死に考えた。そして分かったのだ。

俺は若島津が好きだ──。

ヤツの存在が俺を強くする。大切にしたい。守りたい。今の俺の行動は矛盾してるかもしれないが、あいつを守るためにはもっと強くならなきゃいけない。
 なにがなんでも、手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。


08

「この大会、おまえは使わん」

 東邦へ戻った俺への、北詰監督の第一声だ。
たしかに許可もなく学校を飛び出し、長期間の無断欠席というやり方は真っ当ではなかったかもしれない。けど、あの時の俺はそうすることしかできなかった。もっと強くなる為には、後先考えてはいられなかったのだ。

 しかし世間というのはそう甘いものではない。
チームの奴らも口々に抗議をしてくれたが、監督の信念とやらは決して曲げられそうもなかった。
 試合に出られない…いったい何の為に俺は──。

 言葉を無くして立ち尽くす。監督の無慈悲な号令で、部員達はおずおずとグランドへ散って行った。俺の目の前でキャプテンを命じられた若島津が最後に残る。
なにか言いたげに俺をじっと見ていたが、なにも言いきれずに立ち去っていった。

 結局、部活に出ることは許されたものの、最後までボールには触らせてもらえなかった。
明日から始まる本戦のことを考えるといてもたってもいられないのに、全くの蚊屋の外に置かれ、俺はなす術もなくただチームの練習風景を眺めているしかなかった。

体を動かさないから腹も減らないし眠れない。ぼんやりと天井を見つめていると、若島津が風呂から戻ってきた。
今の自分は不甲斐無くて合わせる顔なんかないのに、この部屋はあいつと俺の部屋なのだ。嬉しくて切ない現実だった。

「日向さん…」

 ようやく若島津が口をきいた。

「心配しないで下さい。なにがなんでも、日向さんが試合に出られるよう俺達でなんとかしますから」
「…なんとかって言ったってよ…」

 最悪の事態に頭がうまいこと働かず、不貞腐れたセリフしか出てこない。

「…俺、信じてるから…。日向さんと、必ず優勝するって、信じてますから」

 怒ったように言うと、若島津は自分のベッドに潜り込んで頭まですっぽりと布団をかぶった。やがて消灯になり、そのまま俺達は言葉を交わさなかった。

 監督は宣言通り、決して俺を試合に出そうとはしなかった。
それでも東邦は勝ち上がり続けた。苦しい試合の連続だったが、若島津は上手くチームをまとめ、立派にキャプテンを務めていた。どちらかといえば引き気味にチームを見守るタイプだったあいつが、リーダーシップを執って皆を引っ張っていく姿は意外だった。
ピッチの上のあいつがなんだか眩しくて、俺の手の届かないところにいってしまう気がして不安になる。
そんな気弱な気分に陥っていると、それを叱咤するかのようにゴール前から若島津の視線が俺を射った。

『大丈夫だから』──。

 若島津を守りたいと、そのためにもっと強くなりたいと願いながら、逆に若島津に叱咤を受けている自分が情けない。
今の俺にはいったい何ができるだろう‥‥。
本当を言えば監督を殴り飛ばしてでも試合に出たい。その試合を最後に東邦をクビになっても構わないとさえ思う。けど、そんなことをすれば後に残るあいつらが困ったことになるだろう。
今となっては憎しみしか湧いてこない北詰監督。その監督の気持ちをどうにかして動かさなければ、永久に俺の出番は巡ってこないのだ。
どうにかして…。

 方法は一つしか思いつかなかった。俺みたいなガキにできることなんてたかが知れてる。それでもやるしかないと、俺は決意を固めた。


09

 南葛決勝の前夜、事態は動いた。
俺を出さなければ試合をボイコットすると、チーム全員が申し出たのだ。ドアの外で若島津の嘆願を聞いた俺は急いで部屋へ踏み込んだ。
そんなことはさせない。俺がどうなろうと、こいつらは絶対に試合に出なければならない。しかしその前に、俺はどうしてもやらなければならないことがあった。

 グランドに呼び出した監督の目の前で、俺は土下座をした。
もう、こうするしかなかった。これしかなかった。人前で地面に這い蹲るなんてこの上ない屈辱だったが、それ以上に試合に出してもらえないままこの大会が終わることの方がよっぽどの苦痛だった。
「試合に出させて下さい」と歯を食いしばって頭を下げた。
 するとチームの全員が俺と一緒に土下座をしてくれたのだ。こんな俺の為に──。

そうしてとうとう、苦虫をつぶしたような顔で北詰監督が条件を出した。
反町とタケシを抜いて若島津からゴールを奪ってみせろとチャンスを与えられたのだ。
一斉に湧き上がるチームメイト達を前に、俺はいつまでも頭を上げることが出来なかった。

「悔しいな…。一歩も動けなかった」

 なぜか嬉しそうに若島津が言った。
その夜、すべてを明日に控え自室に戻った俺達は静かに言葉を交わした。

「あのシュートをそう簡単に捕られてたまるかよ」
「いつか必ず止めて見せます」
「相変わらず負けず嫌いだな、おまえは」

 他愛もないやりとりをしながら、満を持して向かえる明日の決勝に思いを馳せた。

「日向さん…」
「ん、なんだ?」
「どうしてあの時…キスしたんですか」
「……」

 ようやく試合出場を認められ舞い上がっていた俺は、急に現実に引き戻された。
若島津を愛しく想っているという現実。
サッカーのことで一杯一杯で、頭の隅に仕舞い込まれていた気持ちが今になって蘇ってきた。

「今は、聞かない方がいい」
「…ファーストキスだったんです。聞く権利あるでしょう?」
「…動揺するぞ」
「…言いたくないんですね。分かりました」
「若島津…」
「もう、寝ます。おやすみなさい」

 怒った若島津は怖い。抑揚のない声で突き放されるような態度を取られると、さすがの俺もオロオロしてしまう。そうでなくても、とくに今夜は頭が上がらないのだ。

「わ、分かったよ!言うよ‥言えばいいんだろ…」

 俺はベッドに起き上がって胡坐をかいた。

「す…好きだからだよ。そんだけ。そんだけだ」

 気の弱い亭主のように項垂れる自分が滑稽だった。
言うつもりなんてなかったのに。男が男を好きになるなんて、自分でも理解しがたい感情だ。自分に対しても上手く説明のつかない思いを、寄りによって本人に告白するなんて考えもしなかった。
言うだけ言って、馬鹿正直な自分を後悔した。

「じゃあな!おやすみ」

 ヤケクソに布団をかぶったが、10秒もたたないうちに暑くて死にそうになった。


10

「日向さん…そっちで寝てもいいですか?」
 信じられない言葉が返ってきた。
思わず布団を跳ね上げて若島津の方を振り向いた。するとやつはすでに枕を抱えて俺のベッドのそばに立っていた。

「え…あ?」
「おじゃまします」

 有無を言わさずベッドに乗り上げてくる。俺の告白に動揺した様子はひとつもなかった。
馬鹿の戯言と軽く交わされたのかと、逆に不安になってしまう。

「おまえ…意味分かってんのか?」
「…多分」
「い、嫌じゃないのか?」

 しばらく天井を見上げて黙り込んだと思ったら、ゆっくりと寝返りをうって俺を見た。

「キス、してください…日向さん」

 思いもしないセリフに自分の耳を疑った。

「おい…からかうなよ。怒るぜ?」
「…キスして」

 軽い口調で淡々と喋っていると思っていたが、恐る恐るその目を覗き込むと驚くほど真剣で、壊れそうなほど必死だった。

「若島津…」

 俺は吸い寄せられるように、唇を寄せた。触れてすぐ離すと、若島津の目が涙で滲んでいた。

「…不安だった…バカ…バカだよあんた…」

 声を詰らせながら、腕を首に絡ませて抱きついてきた。

「ごめん…ごめんな…若島津…」

 俺も力いっぱい抱きしめた。

「明日…絶対優勝ですからね…あんたを、信じてるから」
「ああ、あたりまえだ。絶対だ」

 うっすらと汗ばむ額にキスをすると、若島津は安心したように目を閉じた。


11

 全てが終わった。
結果、同時優勝──単独ではなかったがチームの皆も監督も、学校のお偉いさん方も心から喜び、祝福してくれた。
とにかく俺達東邦は全国一になれたのだ。
ただ、あれだけやったのにやっぱり翼に勝つことは出来なかった。それだけは悔いが残る。

 しかし今の俺はそんなことよりも若島津が心配だった。
試合中の接触で、昔事故でケガをした肩の古傷を再び痛め、試合終了と同時に病院へ連れて行かれてしまったのだ。
そのまま実家の親御さんが迎えに来たらしく、それっきりあいつとは会っていない。
祝賀ムードで浮かれる中、俺はあいつの実家へ行くべきかどうしようかとうじうじ悩んでいた。
 そんな時スカウト部長の小泉さんから、俺と若島津がジュニアユースの代表メンバーに選ばれたという連絡をもらった。
出発は5日後――。

「若島津くんも連れて行くわよ」と小泉さんは自信満々に言った。
 ケガの具合はどうなんだろう。あんな様子で果たして国際試合などに出場できるのだろうか。とにかく会ってヤツの意思を確かめなければ。
俺はいてもたってもいられなくなり、着の身着のまま寮を出てバスに飛び乗った。

明和の駅に着いた途端、夕立ちに見舞われた。
すぐに止むだろうと雨の中駆け足で若島津の家へと向かったが、着く頃にはジーンズがザブザブに重くなる程ずぶ濡れになってしまった。こんな格好で若島津の屋敷を訪ねるのは戸惑われたが、着替えもないし、かといって自分の家に立ち寄る気分でもなかったからそのまま向かうことにした。

「まあっ小次郎くん!ちょっと待ってて」

 俺のいで立ちを見た若島津のお袋さんが驚いてバスタオルを持ってきてくれた。玄関先で取り急ぎ雨の雫を拭っていると親父さんが現れた。

「上がってもらいなさい。飯は食ったのか?」
「いえ…」
「ちょうど今空手の勉強会が終わったところでな。弟子たちが座敷で飯を食っておる。一緒に食べなさい」

 そう言って奥に引っ込んでしまった。

「まずお風呂が先ね。とにかく上がって」

 上がり込むつもりはなかった。とにかく若島津に会って話がしたくてここへ来たのだ。あいつを呼び出してもらおうと口を開きかけたその時、

「日向さん!?」

 顔を上げると、見たことのないTシャツにカーゴパンツ姿の若島津が立っていた。
3日ぶりに会う若島津は少しふっくらとしていて、俺とは住む世界の違う若堂のお坊ちゃんの顔に戻ったような気がした。

「…元気そうだな。ケガの具合はどうだ?」
「はい、もうすっかり…」
「健、無理言っちゃだめよ。まだ安静にって言われてるでしょ」

 お袋さんに釘を刺されて口をつぐむ。

「小次郎くんをお風呂に案内してあげて。着替え、健のでいいかしら」
「いや、でも俺すぐに…」
「健のこと、心配して来てくれたんでしょう?ゆっくりしていってちょうだいね」

 お袋さんはバタバタと慌しく奥へと引っ込んで行った。

「すいません…今日はお客がいっぱい来ていて忙しくて。風呂、こっちです」

 案内されるまま、図々しくも俺はあいつン家の湯船に浸かっていた。

「着替え、ここに置いておきます」
「ああ、悪いな」
「…日向さん…」
「小泉さんから連絡あったろ?おまえ、どうする?」

 すりガラス越しに何かを言いかけた若島津を遮って、俺は潔く用件を言った。

「どうするもなにも、もちろん参加しますよ。肩はもう平気です」
「…そっか。よかった」

 力強いヤツの返事に安堵して自然と顔が綻ぶ。

「あの、日向さん。今日は泊まっていきません?」
「え…迷惑じゃねえのか?」
「もう母さんにも許可もらったし、大丈夫です。日向さんさえよければ」

 急に心臓がドキドキしてきた。家も近くで長い付き合いの俺たちだが、この家に泊まらせてもらったことはない。
若島津の家にとって俺はどうも招かれざる客のような気がして、昔からこの家の敷居を高く感じていたのだ。なにしろ道場の跡継ぎというレールを敷かれた若島津を、サッカーの世界へ引きずり込んだのは俺だ。親父さん達に快く思われていなくても仕方がない。
おまけに今は、その若島津によからぬ感情を抱いている。とても歓迎された存在ではないことぐらい、自分でも察しがつく。けれど…

きっぱり遠慮すべきだったのに、俺はついその好意に甘えてしまった。
 今夜は若島津のそばにいられる…その誘惑にとうとう抗えなかったのだ。


12

 座敷に通されるとそこには道場の空手家達が10人ほど招かれて食事を摂っていた。
俺もその中に混じってお膳を振舞われた。なんだか居心地悪くて食欲も湧かない。若島津はというと給仕の手伝いで台所と行ったりきたり、なかなか腰をすえて話も出来ない。早いとここの場から立ち去りたくて、急いで飯を掻き込んだ。

ちょうど食べ終えた頃、若島津がお茶を持って現れた。

「日向さん、離れにお布団敷いてもらったから、案内します」

 ヤツが俺の名前を呼んだ瞬間、一斉に弟子達の視線が射るように集まった。

「アンタが『日向サン』、か。若をこんなになるまで…」

 その中でもとりわけガタイがでかくて剣呑な顔つきのオッサンが、俺を睨んでなにやらインネンを付けてきた。

「犬山、余計なことを言うな」

 冷たく抑揚のない声で制され、犬山というヤツは黙り込んだ。
若島津のこんな表情を見るのは初めてだった。自分よりも遥かに年上の、猛者のような男を叱り付ける冷淡な横顔に一瞬背筋が凍った。

「気にしないで下さい。あの人、今も俺がここを継ぐことをしつこく望んでいて…サッカーには理解がないんです」

 廊下を歩きながら話す若島津は、もういつもの柔らかくて穏やかな顔に戻っていた。

「どってことねえよ。それより、忙しい時に来ちまったみてえで・・悪かったな」
「そんなこと!…嬉しかったです…日向さんが来てくれて」

 中庭の灯篭が灯って、若島津の顔を照らした。
大会中の疲れきった表情に比べると血色もよくなり、唇もふっくらとして見えた。よくよく見ると若島津はこんなにきれいな顔だったのかと、俺は馬鹿みたいにぽかんとしてあいつの顔に見惚れてしまった。

「あの…俺、まだ片付けが残ってるんで失礼します。すみません、せっかく来てくれたのに」

 あんまり見つめるからか、急にそわそわして若島津は行ってしまった。
離れには客用の布団が丁寧に敷かれてあって、その上には浴衣が一揃い用意されていた。
昔は誰かが使っていた部屋と見えて、古くて小さな箪笥や鏡台が置かれ壁には書を認めた額縁が掛けられていた。しかし畳は手入れされているらしく、真新しい井草の匂いが鼻をくすぐった。

壁掛けの振り子時計が9時を知らせる。電気もテレビも付けず、庭から聞こえる夏の虫の声に耳を澄ませた。
 若島津はこの家で生まれ、広々とした佇まいの中規則正しく育てられ、夏の夜にはこうして虫の声を聴きながら過ごしていたんだと思うと、すべてが愛しく思えた。

「日向さん…」

 障子の向こうから若島津の声がした。

「遅くなってすみません。…起きてます?」
「ああ」
「俺、明日一緒に帰ります。父さんも、許してくれたんで…」
「…入れよ」

 一呼吸おいて、障子がそっと開けられた。
寝巻きなのか、さっきと違う服を着た若島津が遠慮がちに入ってきて、後ろ手に障子を閉めた。

「あ…」
「なんだ?」
「日向さん、それ合わせが逆です」

 浴衣姿の俺を見るなり困ったような顔をして言った。浴衣なんて着たことがないから適当に巻きつけていたら、どうやらこれにも作法があるらしい。若島津は静かに近寄ってきてひざをついた。

「それじゃ死に装束ですよ。貸して…」

 帯に手をかけようとして、またすぐ手を引っ込めた。心なしか顔が赤いような気がした。

「左が前です…」
「もういいよ、めんどくせえ」
「……」
「若島津…?」

 俯いた唇がかすかに震えていた。

「俺…これからも日向さんと…」
「……」
「ずっと、一緒にいてもいいんですよね…?」

 俺は何も言えなくなって、若島津の体をそっと引き寄せた。


13

 抱きしめた若島津からは石鹸の匂いがした。
トクトクと心臓の音がする。夢でも空想でもなく、若島津が俺の胸の中で息づいている。

「若島津…」
「……」
「好きだ…」

 ゆっくりと顔を上げると、ヤツは目を閉じた。
3度目のキス。触れるだけで精一杯だったあの時とは違い、お互いを感じるように触れ合わせながら次第に深くなっていく。
左肩に触れるとテーピングで巻かれた部分がTシャツと擦れてガサつく感触がした。ドキリとして唇を離す。
すると若島津が俺の手を握って言った。

「もう、平気だから…気にしないで」

 そして腕を首に回すとヤツの方からキスしてきた。ぎこちない動きで舌を差し出され、俺はたまらなくなって、抱きしめたままゆっくりと布団に押し倒した。

若島津に対する欲望は性急に登りつめていった。これまで普通に接してこられたのが嘘のようだ。すべてが愛しくて、すべてが欲しくてたまらない。頭の片隅では肩を気遣いながらも、俺は若島津の体の隅々までを愛撫し、無遠慮に侵していった。
障子一枚という心もとない仕切りに遮られた密室で、俺達はあられもない姿で裸体を絡ませ合った。

「欲しい…おまえが欲しい…」

 獣みたいにヤツの体を貪りながら、呪文のように繰り返す。しなやかにうねる若島津の体が俺を貪欲にした。どんなに触れても足りなかった。

「日向さんになら…俺…」

 散々みだらなことをされながらも、ヤツは俺に身をまかせてきた。媚びない瞳で俺を見上げると、少し掠れた声で言った。

「好きだった…もうずっと前から…」
「若島津…」
「だから…嬉しい」

 布団からこぼれ落ちた足が畳を擦る。
振り子時計の音、二人の呼吸、肌が擦れ合う音がこの小さな密室に繰り返し響き渡った。
若島津の体は信じられないくらい深く俺を飲み込んでいった。熱くてどうにかなりそうだった。

ガキの頃からサッカーのことだけを考えて突っ走ってきた。そして振り向けばそこにはいつも若島津がいた。
今、その若島津と二人して未知の世界に迷い込んでしまったような気分だ。抑えられない好奇心と、ちょっとの恐怖と・・・。この先に何が待っているのか、考えると不安になる。でも二人で手を繋いでいればきっと大丈夫だ。迷うことなんかない。

 俺は腕の中にある確かな温もりをギュッと抱きしめた。


14

 こうして身を寄せ合っていると、あの寒かった日を思い出す。
若島津と過ごしてきた日々が、今となってはすべて意味深いものに思えてくる。
腕の中で眠る若島津に、俺はそっとキスをした。

「もう、離さねえから…」

  起こさないようそっと囁いたつもりだったが、ヤツはゆっくりと目を開けた。
はにかむように笑うと俺の背中に腕を回した。

「俺だって離しません…」

 柔らかくていい匂いのする髪の毛が胸をくすぐる。

「もう二度と、勝手な行動はさせませんから」
「ああ…すまなかった」

 そのことを言われると頭が上がらない。柄にもなくしょげて黙り込んでいると、ふいにヤツの唇が触れた。
何も言わず、啄ばむようにキスをされた。何度目かのキスで、ようやく若島津が誘っていることに気づいた。

「鈍感…」
「…いいのか?」
「……」

 気が付けば明け方まで俺達は抱き合っていた。
空が白みかけた頃、若島津は衣服を整えて離れを出て行った。
夢みたいな一夜だった。

 道場の朝は早い。ようやく眠りに落ちたと思ったら、外から賑やかしい声が聞こえて、まもなく稽古が始まったようだった。
昨夜のことでなおさら肩身の狭い俺は、ボーッとする頭をどうにか振り起こし、身支度を整えて部屋を出た。
道場をチラリと覗くと、さっきまでけだるい顔で俺の懐にいた若島津が、しっかりと胴着を着て朝稽古に顔を出していたので驚いた。ヤツのタフさはもしかしたら俺を凌ぐかもしれない。


 しかしさすがに帰りの電車の中で、若島津は爆睡だった。
俺の肩に凭れ、無防備にすやすやと眠るヤツはマジに可愛くて、乗り合わせた女子高生らがひそひそとヤツの寝顔を盗み見ているのを見逃さなかった。
コイツがどうしてこんなにヘトヘトに疲れきっているのかそっと耳打ちしてやりたい気分だが、そんないたずら心は胸の中に仕舞いこみ、電車は東邦へ向かって律儀に走って行くのだった。


 

2006.12.15~2007.2.16/お海老連載


■あとがき■

原作にはない行間の物語を紡ぎたい一心で専門外のSSに挑戦しました。
つたない文章で「ん?」という部分も多々あったかと思いますが、自分としては妄想補完できて満足しております。
ここまで読んでくださりありがとうございます!

志賀島みい