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01 グランドに怒号が響きわたった。キーパーコーチの声だ。 冬休みに入り、朝から夕方までサッカー漬けの日々。それも明日までで、一応東邦サッカー部にも年末年始の休暇がある。その間実家に帰るヤツが殆どだが、申し出れば寮に残ってもかまわない。 非常階段の方へ歩いて行くと、ドアがわずかに開いていた。 「若島津」 あいつはこの寒い中、膝を抱えるようにして階段に座り込んでいた。 「おまえ、何してんだよ。風邪引くだろ?」 「……」 話しかけても若島津は振り向きもしない。無視されたみたいでムッときた俺は力づくであいつの肩を引っぱった。そしたら… 「なっ、なんでもないってば!」 「…泣いてるのか?」 我ながら無神経な質問だと思った。男が隠れて泣いてるところを見られて格好良いわけがない。気付かないフリをして退散するのがよっぽど親切だろう。でも、ほっとけなかった。 「…」 「部屋に帰ろう」 「いやだ…反町と島野がいる。誰にも会いたくない」 俺達1年生は4人部屋だ。幸い同室のメンバーは気のいいやつらで、初めての寮生活でも難無く溶け込むことができた。でも若島津はわりと神経質だから、もしかしてちょっとは無理をしているのかもしれない。普段の冷静で大人びた若島津からは想像できない、駄々っ子みたいな横顔を見てそう思った。 若島津の涙の理由はなんとなく解った。どんなに頑張っても上手くいかない、結果が伴わない日々の苛立ちと焦り。結局なにもできないまま休みを迎えるのが自分でも腹立たしいに違いない。 「俺…家に帰りたくない。今のままじゃきっと…連れ戻される」「若島津…」 「俺…父さんを説得する自信、なくなってきた…」 「バカ、しっかりしろよ」 「日向さんと一緒に居たいってだけじゃ、ダメなのかな…ここに居ちゃいけないのかな」 なんだろう。急に胸がドキドキしてきた。腕の中でこんなセリフ言われたら、なんだか錯覚してしまいそうになる。まるで女のコの告白を聞いてるみたいだ。そんなワケはないのだけど。でも‥‥‥。 「かまわねえよ。ずっと俺のそばに居ろ。チャンスは必ず巡ってくる」「……」 「俺だって、おまえがいなくなったら…」 いなくなったら…。 この顔が見れなくなる。この声が聞けなくなる。想像しただけで胸がぎゅうっと締め付けられた。 「ダメだ、そんなの」 「日向さん…」 「ダメだ」 絶対手放したくない。こいつは俺のキーパーだ。若島津と一緒じゃなきゃ、俺は今以上の男にはなれない気がする。 |
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02 この冬、俺達は実家へ帰らず寮で年を越すことにした。 「べつにどうってことはねえよ。俺が帰らなければ、あいつらのお年玉がその分増えるからかえっていいんだ」 「…」 ヤツがちょっとだけ微笑んだ。一昨日の夜、俺に泣き顔を見られたことを気にしてかずっとぎこちない表情だったから、その顔を見て俺も少しホッとした。 正直、弟達のことよりも今の俺にとっては若島津の方が大事だった。俺がそばにいてやらなきゃいけない気がして‥。俺も残ると言った時のあいつの泣きそうな顔を見てなおさらそう思った。 「…俺でいいんですか?」 「おまえがいいんだよ。おまえは俺のキーパーなんだから自信を持て」 「…はい」 はにかむように下を向いて食事を口に運ぶ若島津が、なんだか可愛く思えてしかたがなかった。 実際、こうして向かい合ってマジマジと顔を見たことなんか今までなかったから、意外に整ったきれいな顔をしているということに改めて気が付いた。つい手を止めて見蕩れていると、だんだんとあいつの顔が赤くなった。 「あの…なんですか?食べづらいんですけど」 「い、いや、なんでもねえ」 急にドギマギして慌てて飯をかき込んだ。 談話室でなんとなくテレビを見て、消灯時間も迫った10時前には部屋へと戻った。いつも以上にひんやりと感じる室内に体が縮こまる。布団も冷たそうだ。 「ん…カイロ。買い置きしてたんだけど‥‥昨日のでおしまいだったのかな。まいったな」 「おまえ、毎晩カイロ使ってんのか?」 「足が温まらないと寝れないんです、俺」 「じゃあ、こっちで一緒に寝ようぜ。狭いけど」 「えっ?」 何気に口から出たセリフに自分でも焦った。つい弟達にそうしていることを思い出し、考えなしに口走ってしまったが、中1にもなって同級生と一緒の布団に寝るなんてちょっと恥ずかしいかもしれない。変な意味はないのだと弁解するのもおかしい気がして、また引っ込みもつかなくて俺は黙ってあいつが断ってくるのを待った。 「…いいんですか?」 てっきり断られるつもりでいた俺は面喰らった。「俺はありがたいですけど…」 「あ、ああ。かまわねえぜ」 意外だった。マジで驚いた。若島津が他人の布団に抵抗なくもぐり込んでくるなんて。 「お邪魔します…」 「ひぇっ!冷た!おまえホント冷てえぞ!大丈夫かよ」 一瞬触れた足先があまりに冷たくて、俺は強引にその足を自分のふくらはぎの間に挟みこんだ。 「え、ひゅ、日向さんっ!いいよ、そんなこと」 「温ったまらねえと眠れないんだろ。こうやってるのが一番早い」 「で、でも…」 「弟達にもよくやってた。俺、体温高いみたいだから効くぜ」 「…うん…あったかい」 ――こんなふうに笑う若島津を、ほんとに久しぶりに見た気がする。 |
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03 2年になり、最初の他校との練習試合で若島津はレギュラーに抜擢された。 「家以外で正月を迎えたのなんて初めてだったからな。俺もアレはなんか特別な味がした」 「あの時、日向さんが一緒にいてくれなかったら、今頃俺は実家に逃げ帰っていたかもしれません」 「バーカ。んなわけねえよ、おまえに限って」 夏の大会に向けて順調に滑り出した東邦サッカー部で、俺達は文字通り充実した日々を過していた。 「わっ!なんでもねえよ」 なんだか急に若島津の顔がまともに見れなくなった。…自分で自分が情けない。 |
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04 万年ナンバー2──。都内近郊での練習試合で囁かれるイヤミだ。 今年も決勝で敗れた。総合力でもパワーでも決して劣っているわけじゃない。まして今年は若島津がキーパーを務めたのだ。なのに結果は2位。準優勝で幕を閉じた。 新入生にタケシを迎え、今年の縦のラインは安定したものになると手応えを感じた。 「…空手のことか?」 「…いえ。親戚の法事なんです。門限までには帰りますから」 そう言って若島津は無理に笑顔を見せた。あきらかに理由は他にある気がしたが、俺はそれ以上は聞かなかった。 その日の部活、俺はひどく集中力を欠いた。原因ははっきりしていた。 |
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05 部活を終え帰宅すると、すでに若島津は寮に戻っていた。 「ああ、おまえもな。…どうかしたのか?」 「…なんか疲れちゃって。ウチって親戚多いから、会った事もないようなオジサンの相手したり、お酌したりとか」 そう言って苦笑いを浮かべた。 「ここが一番落ち着くな…。今はもう、ここが俺の帰る場所みたいです」 いつになく俺の目をじっと見つめて言った。疲れているせいなのか、若島津の目は潤んでいるように見えた。 俺の方も、若島津のいない一日があまりにも空虚でつまらなくて、感傷的になっていたせいか、その目をじっと見つめ返した。 「そうだ、ここはおまえの場所だ。どこに行っても、必ず帰って来いよ」 はにかむように微笑む顔があまりにかわいくて、俺はドキリとして目を逸らした。 その夜、春先にしてはちょっと冷え込んでいた。 「…狭いですよ?俺も日向さんも、あの頃から10センチ以上デカくなってるんですから」 「…そうだな。さすがにむさ苦しいか」 そうだよな。俺達はどんどん成長して心も体も大人へと近づいている。いつまでも犬っコロみたいにじゃれ合うわけにもいかなくなってくる。そう思うと、どうしようもない寂しさを感じずにはいられなかった。 「もうちょっと詰めてくださいよ」 「あ、ああ」 俺は思わず顔がニヤけてしまった。 「やっぱり、日向さん温ったかい…」 遠慮がちに足先を俺の足にくっつけてくる。冷えきったヤツの足を以前と同じようにふくらはぎに挟んでやった。 「…島野とも、こんなことしてたのか?」 「すっ、するわけないですよ!やだ、考えられない」 「俺とならいいのか?」 「……」 心なしか若島津の顔が赤くなった。答えを考えあぐねてる風だったが、ようやくぽつりと自信なさげに呟いた。 「日向さんは……幼なじみだから」 幼なじみと言ったって、俺達が出会ったのは小5の時だ。他のやつらとそう大差はないのだが、若島津にとって俺がちょっとは特別な存在なのかと思うと嬉しさが込み上げた。 |
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06 『牙の抜けた虎』── 吉良監督に言われた一言に俺は打ちのめされた。都大会での武蔵との決勝、胸を押さえてうずくまる三杉を前に、俺は立ち尽くしてしまった。 たしかに前の俺ならそんな三杉を弾き飛ばしてでもボールを奪っただろう。でも今の俺にはそんな非道なプレイを選択することはできなかった。いや、出来なくなっていた。 人の温かさを知ってしまったからだ。 その温もりを失うことに臆病になってしまったのだ。 もっと自分を追い込んで、ハングリーさを取り戻せ。 「…沖縄だ」 「冗談でしょう?…学校はどうするんです!?部活は!?」 「本戦までには必ず戻ってくる」 「だけど!そんな勝手な事したらあんた‥‥っ」 「どうしても!強くなりてえんだよ!今よりももっと!」 「…お…俺は…どうすればいいんですか‥?」 「…みんなを頼む」 これ以上若島津の顔を見ていたら行けない気がして、俺は荷物を諦めそのまま出口へと歩き出した。 「…日向さん…っ」 涙を含んだ悲痛な声だった。 自分でもワケが分からない。ただ無我夢中で、俺はあいつの唇にキスしていた。 トンと手を離すと、ヤツはふらりとよろめいた。 |
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07 何度も挫けそうになった。 あいつの為にも俺は挫けるわけにはいかない。誰もが腰を抜かす程のシュートを完成させ持ち帰らなければならない。 あいつはきっと、信じて待ってくれている……。 重ねただけの、柔らかい唇の感触が今もリアルに残っていた。なぜあんなことをしてしまったのか、空港への電車の中で必死に考えた。そして分かったのだ。 俺は若島津が好きだ──。 ヤツの存在が俺を強くする。大切にしたい。守りたい。今の俺の行動は矛盾してるかもしれないが、あいつを守るためにはもっと強くならなきゃいけない。 |
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08 「この大会、おまえは使わん」 東邦へ戻った俺への、北詰監督の第一声だ。たしかに許可もなく学校を飛び出し、長期間の無断欠席というやり方は真っ当ではなかったかもしれない。けど、あの時の俺はそうすることしかできなかった。もっと強くなる為には、後先考えてはいられなかったのだ。 しかし世間というのはそう甘いものではない。 言葉を無くして立ち尽くす。監督の無慈悲な号令で、部員達はおずおずとグランドへ散って行った。俺の目の前でキャプテンを命じられた若島津が最後に残る。 結局、部活に出ることは許されたものの、最後までボールには触らせてもらえなかった。 体を動かさないから腹も減らないし眠れない。ぼんやりと天井を見つめていると、若島津が風呂から戻ってきた。 「心配しないで下さい。なにがなんでも、日向さんが試合に出られるよう俺達でなんとかしますから」 「…なんとかって言ったってよ…」 最悪の事態に頭がうまいこと働かず、不貞腐れたセリフしか出てこない。 「…俺、信じてるから…。日向さんと、必ず優勝するって、信じてますから」 怒ったように言うと、若島津は自分のベッドに潜り込んで頭まですっぽりと布団をかぶった。やがて消灯になり、そのまま俺達は言葉を交わさなかった。 監督は宣言通り、決して俺を試合に出そうとはしなかった。 若島津を守りたいと、そのためにもっと強くなりたいと願いながら、逆に若島津に叱咤を受けている自分が情けない。 方法は一つしか思いつかなかった。俺みたいなガキにできることなんてたかが知れてる。それでもやるしかないと、俺は決意を固めた。 |
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09 南葛決勝の前夜、事態は動いた。 グランドに呼び出した監督の目の前で、俺は土下座をした。 反町とタケシを抜いて若島津からゴールを奪ってみせろとチャンスを与えられたのだ。 一斉に湧き上がるチームメイト達を前に、俺はいつまでも頭を上げることが出来なかった。 「悔しいな…。一歩も動けなかった」 なぜか嬉しそうに若島津が言った。その夜、すべてを明日に控え自室に戻った俺達は静かに言葉を交わした。 「あのシュートをそう簡単に捕られてたまるかよ」 「いつか必ず止めて見せます」 「相変わらず負けず嫌いだな、おまえは」 他愛もないやりとりをしながら、満を持して向かえる明日の決勝に思いを馳せた。 「日向さん…」 「ん、なんだ?」 「どうしてあの時…キスしたんですか」 「……」 ようやく試合出場を認められ舞い上がっていた俺は、急に現実に引き戻された。 「…ファーストキスだったんです。聞く権利あるでしょう?」 「…動揺するぞ」 「…言いたくないんですね。分かりました」 「若島津…」 「もう、寝ます。おやすみなさい」 怒った若島津は怖い。抑揚のない声で突き放されるような態度を取られると、さすがの俺もオロオロしてしまう。そうでなくても、とくに今夜は頭が上がらないのだ。 「わ、分かったよ!言うよ‥言えばいいんだろ…」 俺はベッドに起き上がって胡坐をかいた。 「す…好きだからだよ。そんだけ。そんだけだ」 気の弱い亭主のように項垂れる自分が滑稽だった。 |
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10 「日向さん…そっちで寝てもいいですか?」 「おじゃまします」 有無を言わさずベッドに乗り上げてくる。俺の告白に動揺した様子はひとつもなかった。 馬鹿の戯言と軽く交わされたのかと、逆に不安になってしまう。 「おまえ…意味分かってんのか?」 「…多分」 「い、嫌じゃないのか?」 しばらく天井を見上げて黙り込んだと思ったら、ゆっくりと寝返りをうって俺を見た。 「キス、してください…日向さん」 思いもしないセリフに自分の耳を疑った。 「…キスして」 軽い口調で淡々と喋っていると思っていたが、恐る恐るその目を覗き込むと驚くほど真剣で、壊れそうなほど必死だった。 俺は吸い寄せられるように、唇を寄せた。触れてすぐ離すと、若島津の目が涙で滲んでいた。 「…不安だった…バカ…バカだよあんた…」 声を詰らせながら、腕を首に絡ませて抱きついてきた。「ごめん…ごめんな…若島津…」 俺も力いっぱい抱きしめた。 「明日…絶対優勝ですからね…あんたを、信じてるから」 「ああ、あたりまえだ。絶対だ」 うっすらと汗ばむ額にキスをすると、若島津は安心したように目を閉じた。 |
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11 全てが終わった。 しかし今の俺はそんなことよりも若島津が心配だった。 ケガの具合はどうなんだろう。あんな様子で果たして国際試合などに出場できるのだろうか。とにかく会ってヤツの意思を確かめなければ。 俺はいてもたってもいられなくなり、着の身着のまま寮を出てバスに飛び乗った。 明和の駅に着いた途端、夕立ちに見舞われた。 「上がってもらいなさい。飯は食ったのか?」 「いえ…」 「ちょうど今空手の勉強会が終わったところでな。弟子たちが座敷で飯を食っておる。一緒に食べなさい」 そう言って奥に引っ込んでしまった。 「まずお風呂が先ね。とにかく上がって」 上がり込むつもりはなかった。とにかく若島津に会って話がしたくてここへ来たのだ。あいつを呼び出してもらおうと口を開きかけたその時、 3日ぶりに会う若島津は少しふっくらとしていて、俺とは住む世界の違う若堂のお坊ちゃんの顔に戻ったような気がした。 「…元気そうだな。ケガの具合はどうだ?」 「はい、もうすっかり…」 「健、無理言っちゃだめよ。まだ安静にって言われてるでしょ」 お袋さんに釘を刺されて口をつぐむ。 「小次郎くんをお風呂に案内してあげて。着替え、健のでいいかしら」 「いや、でも俺すぐに…」 「健のこと、心配して来てくれたんでしょう?ゆっくりしていってちょうだいね」 お袋さんはバタバタと慌しく奥へと引っ込んで行った。 「すいません…今日はお客がいっぱい来ていて忙しくて。風呂、こっちです」 案内されるまま、図々しくも俺はあいつン家の湯船に浸かっていた。 「ああ、悪いな」 「…日向さん…」 「小泉さんから連絡あったろ?おまえ、どうする?」 すりガラス越しに何かを言いかけた若島津を遮って、俺は潔く用件を言った。 「どうするもなにも、もちろん参加しますよ。肩はもう平気です」 「…そっか。よかった」 力強いヤツの返事に安堵して自然と顔が綻ぶ。 「あの、日向さん。今日は泊まっていきません?」 「え…迷惑じゃねえのか?」 「もう母さんにも許可もらったし、大丈夫です。日向さんさえよければ」 急に心臓がドキドキしてきた。家も近くで長い付き合いの俺たちだが、この家に泊まらせてもらったことはない。 きっぱり遠慮すべきだったのに、俺はついその好意に甘えてしまった。 |
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12 座敷に通されるとそこには道場の空手家達が10人ほど招かれて食事を摂っていた。 ちょうど食べ終えた頃、若島津がお茶を持って現れた。 「アンタが『日向サン』、か。若をこんなになるまで…」 その中でもとりわけガタイがでかくて剣呑な顔つきのオッサンが、俺を睨んでなにやらインネンを付けてきた。 「犬山、余計なことを言うな」 冷たく抑揚のない声で制され、犬山というヤツは黙り込んだ。 若島津のこんな表情を見るのは初めてだった。自分よりも遥かに年上の、猛者のような男を叱り付ける冷淡な横顔に一瞬背筋が凍った。 「気にしないで下さい。あの人、今も俺がここを継ぐことをしつこく望んでいて…サッカーには理解がないんです」 廊下を歩きながら話す若島津は、もういつもの柔らかくて穏やかな顔に戻っていた。 「どってことねえよ。それより、忙しい時に来ちまったみてえで・・悪かったな」 「そんなこと!…嬉しかったです…日向さんが来てくれて」 中庭の灯篭が灯って、若島津の顔を照らした。 大会中の疲れきった表情に比べると血色もよくなり、唇もふっくらとして見えた。よくよく見ると若島津はこんなにきれいな顔だったのかと、俺は馬鹿みたいにぽかんとしてあいつの顔に見惚れてしまった。 「あの…俺、まだ片付けが残ってるんで失礼します。すみません、せっかく来てくれたのに」 あんまり見つめるからか、急にそわそわして若島津は行ってしまった。 離れには客用の布団が丁寧に敷かれてあって、その上には浴衣が一揃い用意されていた。 昔は誰かが使っていた部屋と見えて、古くて小さな箪笥や鏡台が置かれ壁には書を認めた額縁が掛けられていた。しかし畳は手入れされているらしく、真新しい井草の匂いが鼻をくすぐった。 壁掛けの振り子時計が9時を知らせる。電気もテレビも付けず、庭から聞こえる夏の虫の声に耳を澄ませた。 「遅くなってすみません。…起きてます?」 「ああ」 「俺、明日一緒に帰ります。父さんも、許してくれたんで…」 「…入れよ」 一呼吸おいて、障子がそっと開けられた。 「なんだ?」 「日向さん、それ合わせが逆です」 浴衣姿の俺を見るなり困ったような顔をして言った。浴衣なんて着たことがないから適当に巻きつけていたら、どうやらこれにも作法があるらしい。若島津は静かに近寄ってきてひざをついた。 「それじゃ死に装束ですよ。貸して…」 帯に手をかけようとして、またすぐ手を引っ込めた。心なしか顔が赤いような気がした。 「左が前です…」 「もういいよ、めんどくせえ」 「……」 「若島津…?」 俯いた唇がかすかに震えていた。 「俺…これからも日向さんと…」 「……」 「ずっと、一緒にいてもいいんですよね…?」 俺は何も言えなくなって、若島津の体をそっと引き寄せた。 |
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13 抱きしめた若島津からは石鹸の匂いがした。 「……」 「好きだ…」 ゆっくりと顔を上げると、ヤツは目を閉じた。 若島津に対する欲望は性急に登りつめていった。これまで普通に接してこられたのが嘘のようだ。すべてが愛しくて、すべてが欲しくてたまらない。頭の片隅では肩を気遣いながらも、俺は若島津の体の隅々までを愛撫し、無遠慮に侵していった。 「日向さんになら…俺…」 散々みだらなことをされながらも、ヤツは俺に身をまかせてきた。媚びない瞳で俺を見上げると、少し掠れた声で言った。 「好きだった…もうずっと前から…」 「若島津…」 「だから…嬉しい」 布団からこぼれ落ちた足が畳を擦る。 ガキの頃からサッカーのことだけを考えて突っ走ってきた。そして振り向けばそこにはいつも若島津がいた。 俺は腕の中にある確かな温もりをギュッと抱きしめた。 |
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14 こうして身を寄せ合っていると、あの寒かった日を思い出す。 はにかむように笑うと俺の背中に腕を回した。 「俺だって離しません…」 柔らかくていい匂いのする髪の毛が胸をくすぐる。 「もう二度と、勝手な行動はさせませんから」 「ああ…すまなかった」 そのことを言われると頭が上がらない。柄にもなくしょげて黙り込んでいると、ふいにヤツの唇が触れた。 何も言わず、啄ばむようにキスをされた。何度目かのキスで、ようやく若島津が誘っていることに気づいた。 「鈍感…」 「…いいのか?」 「……」 気が付けば明け方まで俺達は抱き合っていた。 道場の朝は早い。ようやく眠りに落ちたと思ったら、外から賑やかしい声が聞こえて、まもなく稽古が始まったようだった。
2006.12.15~2007.2.16/お海老連載 ■あとがき■ 原作にはない行間の物語を紡ぎたい一心で専門外のSSに挑戦しました。 志賀島みい |