Emotion

 板張りから染み入る冷気。
正座の足元はすでに感覚はなく、しかし黙想による精神統一で頭の中は「無」だった。10分程の仕上げの儀式を終えると、俺はゆっくりと腰を浮かせた。
 足先に血が巡るのを待ち、まずは右膝を立て、重心をかけてから左膝を起こす。すっと腰を伸ばすと大きく深呼吸をした。

 2日前、合宿先のバンコクから帰国し、3日のオフを挟んで月曜には沖縄合宿へと出発する。リーグ戦開幕に向け、なかなかのタイトなスケジュールである。
 オフは名古屋の自宅で自主トレにでも励もうかと思っていたところ、親戚の法事といって埼玉の実家に呼び戻された。
 俺一人がいなくても、と断ってはみたのだが、現在兄が海外留学中であり、本家の長男が欠席となれば代役は当然次男であろうと。正月に帰省した折にうっかり今後のスケジュールを話してしまったのが運の尽きだった。
 俺としては「これから忙しくなる」の意味で伝えたつもりだったのだが、この週末3日間がオフであることをちゃっかり握られてしまっていたのだ。
 金曜の朝に実家へ到着し、ほぼその足で市内の親戚の家を訪ね、お斎を振舞われ、酔った親戚に散々いじられ、色紙にサインをねだられ、という具合で、苦痛すぎる付き合いが終わる頃には夜の8時をとうに回っていた。

 で、今朝である。父と母がいそいそと出掛ける準備をしているから、なにかと思えば町内会のバス旅行だという。それはそれはどうぞお気を付けて、と俺も名古屋へ帰るための荷物をまとめていると、今日一日留守番をしろと言うのだ。
 どうも昨日からこの家は人気が少なすぎると思ったら、姉はいつの間にか家を出て一人暮らしを始めており、妹は修学旅行でオーストラリアに行っているらしい。
つまり、今この家には両親と俺の3人しかいないというわけなのだ。

「そういうことは最初っから言っといてくれよ!」
「最初に言えばあなた、帰って来なかったでしょ?」

 母が姿見の前で服装をチェックしながら答えた。たしかにそうかもしれない。

「一応、今日は道場は休みにしてあるのだが、万が一知らずに来てしまった子供たちがいたら可哀想なのでな。」
「はあ…」

 どうやらこの計画は正月から、俺のスケジュールを掴まれた時から虎視眈々と練られていたと見える。
そういう成り行きで、俺はなす術なく実家に留まり、一人道場で合宿前の自主トレを黙々とこなし、時間を潰す羽目となったのだった。
ちなみにその間、間違えて道場を訪ねてきた子供は一人もいなかった。

 道場の鍵を閉め、クロックスをつっかけて母屋に戻ろうとした時、裏門のあたりに人の気配を感じた。
ここに来てようやく俺の留守番の甲斐が、と目を凝らしてよくよく見ると、それは小さな子供ではなく、むしろ厳つい大男が腕を組み、背中を丸め、コソコソと中の様子を伺うように覗き込んでいた。キャップを目深に被り太いフレームの黒縁メガネをかけている。どう見ても挙動が不審である。
わが家が留守であることをどこからか聞きつけ、空き巣にでも入ろうとしているのではないか。
俺は息を整えて丹田に力を込めると、足音を抑えつつ塀の内側を沿ってその男に近づいた。

「え、うそだろ?」

 俺は思わず口に出していた。
予想外の角度から声がしたせいか、その男は腕を組んだまま2、3歩飛び退いてキョロキョロと辺りを見回した。
 門扉をゆっくりと開く。そこには幼馴染で同級生、戦友であり、そして俺の最も愛しい人、日向小次郎が立っていた。

「…あっちいるんじゃ、今って。」
「いや、オフ。今朝こっちに着いたとこだ。」
「へ…そうなんだ。にしても、なんでうちに?」
「あー、いるかなーと思って。なんか、実家戻ってるって聞いて。」
「誰に?俺、マネージャーにしかこのこと…って、まさか。」
「わりとあっさり教えてくれたけど…悪かったか?」

 日向は腕を組んだまま体を揺すって足踏みしていた。寒さに凍えている様子だ。いったいいつからここに立っていたのだろう。とにかく立ち話もなんなので、家に入ってもらうよう促した。
 だが日向は遠慮がちに「たいした用でもねえし」と言った。たいした用もなく、体が震えるほどの時間を待っているものだろうか。
もしかしてと思い、今日は夜まで自分一人だと言うと、少しホッとしたように「だったら少しジャマしようかな」と言ってのっそり門の中へ入ってきた。
 日向は俺の家族が少し苦手なのだと思う。
日向の誘いでサッカーにのめり込み、俺は人生の分岐の全てにおいて日向の影響を受けたと言ってもいい。そのことで、家族内での俺の立場が微妙だということを、日向も薄々分かっているのだろう。自分がこの家にとって不愉快な存在であることを知っている。
鈍感なようでいて、周りのことはきちんと見えている人なのだ。

 俺の最も愛しい人。そのことは俺の中だけの、絶対に知られてはならない最大級の秘め事だ。
俺の勝手な片思いである。出会って間もなくから、なんとなく心の片隅に恋心を住まわせ、悟られることなく学生時代を共に過ごした。その思いは秘められたまま現在に至る。
同性相手の恋なんて報われないことが当たり前で、どうにかしようなんて思ったことはない。
ただ静かに、この思いが消えゆく日がくるのを待っているのだが、しかしいまだに日向を思う気持ちは燻り続けている。
今となっては慢性の病のようなものだ。
 日向はイタリアに渡ってからも、時々こうして前触れもなくひょっこりと現れる。携帯の番号も、メアドも知らない。互いに今住んでいる住所すら知らない。
にもかかわらず、年に数回は俺の前に現れる。昔からそういう人だったから不思議にも思わないが、端からみれば少々奇妙な関係なのかもしれない。
敢えて分析するなら、日向独自の理が突如なんらかの衝動を生み、本能に従って体が動いているという感じだろうか。
そう聞くと身勝手で付き合いづらい人格に思えるかもしれないが、それが日向という男なのだ。

 座敷で待ってもらい、2階の自室に上がると手早く道着を脱ぎ、洋服に着替えた。そして熱い緑茶を淹れ、あり合わせの茶菓子と共に戻る頃には、座敷は石油ストーブの灯油の匂いと温もりに満たされていた。
日向はストーブの前で手をかざして暖をとっていた。

「風邪なんか引かないでくれよ。俺、責任とれないからね。」
「心配すんな。そんなヤワじゃねえ。」
「まあ、そうだろうけど…にしても、いったい何の用件で?わざわざ事務所に問合わせてまで来てくれるなんて。」
「うん、まあ、たいした用でもないんだがな…」

 そう言って日向は、傍らに置いていたデイバッグを開けてゴソゴソとまさぐった。

「土産だ。」

 坐卓に向き直ると、一目で舶来モノと分かる包みを静かに差し出した。おそらくそれは高級なチョコレートだとか、そういった類のものに違いない。丁寧なラッピングで包まれているにもかかわらず、甘い香りが漂ったのは気のせいではなかった。しかもそれにはゴールドのリボンが設えてあり、土産物というよりは特別なプレゼントのようで、俺は場違いにも胸が高鳴ってしまった。

「あ、ありがと。」
「じゃあ、そういうことで…俺、帰るわ。ジャマしたな。」
「え、ええ?ちょっと待ってよ、それだけ!?」
「ああ。」

 淹れたてのお茶に手をつけることなく、日向は立ち上がった。俺はわけがわからないまま、玄関に向かう日向の背中をあたふたと追いかけた。無意識に、手には土産の包みを握り締めていた。
 いつも思う。次はいつ会えるだろう、俺が会いたくなったらどうすればいい?あんたの電話番号教えてくれよ、と。
 再会はいつも日向の一方的な来訪で、一方的に去っていく。次に起こる日向の気まぐれを、俺はどれくらい待てばいいのだろう。
惚れた弱みからか、俺の思考はいつだって受身だった。自ら日向の私生活に踏み入るのが怖い。一歩踏み出した先で拒絶をされたら、心がポッキリと折れてしまうのが目に見えていた。
今のままでいいのだと、自分を納得させこれまでも日向を見送ってきたのだから、今更である。
 それでもやっぱり、日向の背中を見ていると泣きそうになった。
日向は玄関の上がり框に腰掛け、スニーカーを履き終えると振り返って言った。

「じゃあな。」
「…あ、うん。気をつけて…」

 こんなに早く帰ってしまうのなら、着替えで待たせたりなんかせず少しでも長く側にいればよかったな、などと考え、そんな小さな後悔が頭を過ぎったせいか、作りかけた笑顔が曇ってしまった。咄嗟に俯く。
 引き戸に手をかけ出て行く素振りを見せた日向が、暫くそのままの形で固まった。何か忘れ物でもしたのかと様子を伺う。すると手を引っ込めて再び俺の方へ振り向いた。

「…なあ、また、会いに来てもいいか?」
「え?」

 期待もしていなかった日向の言葉。現金なものだ。消沈していた気分が急に上向く。俺は上 がりそうになる口角を懸命に抑えつつ、澄ました口調で返した。

「ああ、もちろん。待ってるよ、いつでも。」
「そっか、うん。…じゃあさ、おまえもイタリア来いよ。」
「えっ?」

 会話の途中、日向はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、メモのようなものを取り出した。

「こないだ、ようやく携帯を持ったんでな、これ番号だ。」

 メモには11ケタの番号が走り書きされていた。いつからポケットに入っていたのか、メモはぐしゃぐしゃになっていて、それがかえって日向の体温を感じさせた。
 俺は受け取ったメモを両手で伸ばしながら、番号を暗記するくらいの勢いで見つめ続けた。日向の顔を見ると目が潤んでしまっているのを勘付かれそうだったからだ。
たったこれだけのことに感動して泣きそうになってる自分が、ちょっと情けなくて恥ずかしい。
 東邦を卒業して会えなくなって、あまつさえ物理的な距離が生じ、それでもサッカーを続けている限り日向とは繋がっていると信じた。
しかし国内リーグと海外リーグ、日向はA代表で、俺はU23。会える頻度は遠く、消えゆくどころか時が経つにつれ恋しさは募り、思いは強くなる一方だった。

 メモの、少しハネの大きな荒々しい数字を見ていると、なぜだか気持ちが奮い立つ。少しくらいおかしな奴と思われてもいい。

「次、いつ会えるかな。」
「……」
「本当に、会いに行ってもいいの?俺。」
「ああ。」
「迷惑とかじゃない…?」
「んなわけねえだろ。」
「…だったら、早く会いたい、かも…」

 ちょっとの沈黙の後、突然腕を引っ張られた。片足が土間床に落ちバランスを崩したところを日向に支えられた、というか、日向の腕の中に抱えられていた。いや、抱きしめられていたというべきか。
一瞬の出来事に思考が追いつかず、暫く俺は動けなかった。ただただ、胸に響く日向の鼓動を感じ、聞き入っていた。

 どれくらいそうしていただろう。日向がゆっくりと息を吸って、言った。

「ダメだな、俺は。おまえに関しては、自分に甘すぎる。」
「……?」
「ガマンがきかねえ。」
「日向さん…?」

 年に数回、リーグ戦だったりカップ戦だったり、なんの音沙汰もなく日向は突然ひょっこりとスタジアムに現れた。
どこかで招待チケットを手に入れたのだろう、VIPブースで観戦しているらしいというのを、ハーフタイムの仲間の雑談で知るというのがパターンだった。

 試合後、ロッカールームにやってきて、顔見知りに挨拶するついでのように俺に声をかけ、「よお久しぶり」みたいな、なんてことない会話を交わし、そっけなく帰っていく。会う、というよりも、ほとんどすれ違う程度の、束の間の再会。

「おまえとは、ダチのままでいられたらそれでいいと思ってた。けど、やっぱり、そんなんじゃ全然足りねえ。ちょっと会って話したくらいじゃ全然満たされねえ。」
「……」
「離れてみて、よく分かった。やっぱり俺には、おまえが必要なんだ…ずっと、ガキの頃から、ずっとだ。」
「日向…」
「なあ、俺たち、付き合ってみねえか。」
「はっ…?」
「おまえも、俺のこと好きなんだよな…?」

 俺は弾かれたように日向を押し戻した。頬から耳にかけて、火が付いたように熱くなってくる。おそらく真っ赤だ。

「気付いてないと思ったか?俺はな、誰よりもおまえのこと見てたんだぜ。」
「うそだろ…」
「男同士なんてありえないと思ってた。たとえ互いに好きでも、そこだけは超えちゃいけねえって…意地になってたっつうか。」
「……」
「あっちで行き詰まったりした時、おまえの顔が頭に浮かんで、どうしても会いたくなってスタジアムに何度か…。ゴールに立つおまえを見れば踏ん張れるって思ってな。俺、単純だからよ、それくらいでもごまかしが効くと思ってたんだな。けど、違った。そんな単純なもんじゃなかった。」

 静かに響く日向の独白。この声が好きだ。体の芯に響くような、重くて低い声。秘め続けていたはずの思いを、とっくに見透かされていたという羞恥をしばし忘れ、日向の声にうっとりと酔いしれる。

「俺の話、聞いてる?」
「え?あ、うん…」
「なんだよそれ。ない頭振り絞ってガチで告ってるっつうのによ。」
「だって、急に色々…頭が混乱してる。」
「時間がない。夜の便でとんぼ返りなんだ。」
「ええっ?なんでそんな無謀なスケジュールなわけ?」
「だから、今日はおまえにチョコと番号渡すのが目的だったからよ。それさえできればって思って…」
「チョコ…?」
「今日は、こっちは14日だろ。ほら、アレだろうが。」
「…これって、そういう?」

 握り締めていた長方形の箱に目をやる。甘い香りの包みの正体、それはバレンタインのチョコレートだったのだ。ぶっきらぼうな態度の裏側でこんなロマンチックなことを企んでいたのかと、思わず頬が緩んだ。
長年イメージし続けていた日向という男のパーソナリティを上書きする必要がありそうだ。
 俺は黄金色のリボンを引いて、慎重に包みを解いた。
化粧箱を開くと並列に5つ、それこそ日向のイメージからは程遠い華奢なプラリネが慎ましく並んでいた。ふわりと洋風の甘い匂いが純和風の玄関に立ち込める。フタの裏に引っかかっていた小さなカードを捲ってみる。

 そこには踊るようなフォントで「Ti amo」と書かれていた。

「これ、どういう意味?」
「んーと…なんだっけな。」
「イタリア語だろ?これくらい、もう分かるんじゃないの。」
「自分で調べろよ、俺が帰った後に。」
「あんたの口から聞きたいんだよ。」

 本当は知っていた。日向がイタリアに渡ってから、なにげにイタリア語講座のテキストを買ってみたりと、冷やかし半分でちょっとだけ齧ったことがある。その短い単語は最初の方のページに出てきたやつだ。
だがある日そんな自分のいじましさが女々しく思えて、途中で投げ出してしまった。

「Ti amo」愛してる───。

 日向を思い続けた年月が脳裏に駆け巡る。胸が熱くなり、思わず目を伏せた。涙が溢れそうだった。
するとそれを察知したかのように日向の掌がそっと伸びてきて、両の頬をやさしく包んだ。

「たぶん、こういう意味だろ。」

 吐息が触れた。柔らかい感触が唇を塞ぐ。瞼が震えたが、俺は目を瞑り続けた。目を開けたら日向が照れて、さっさと離れてしまう気がしたのだ。
日向の口付けは優しいものだった。まるで壊れ物に恐る恐る触れるように、試合などで見せる荒々しい様相の日向からはとても想像できない、慎重すぎる口付けだった。

「…こんなに簡単なことだったんだな。」
「…?」
「無敵になったような気がするぜ。俺にはおまえがいる…それだけで、どこでだって戦える。」
「日向…」
「力をくれて、ありがとうな。」

 最後に額をコツンと合わせると、日向は出て行った。

 俺は暫くの間、放心状態で上がり框にへたり込んでいた。足先が悴んで感覚を失っているのに気付き、裸足だったのを思い出した。
引き戸の磨りガラスの向こうはいつの間にか薄暗く、夕日が反射しているのか、所々が照柿色に光っていた。
 そろそろ両親がバス旅行から帰ってくる頃だ。いつまでも惚けていてはおかしな勘ぐりを受けてしまう。俺は足の裏を軽く叩くと、ストーブのつけっぱなしにしてある座敷へと向かった。

 ──約1ヶ月後。
 俺はレッジョ・エミリアに向かっていた。
ミラノ・マルペンサ空港からリムジンバスと列車を乗り継ぎ、およそ3時間。途方もない長旅である。
日向はこれまで、ほんの一瞬とも言える再会のためにこんなにも労力を払っていたのかと、思わず感嘆のため息を漏らした。
 到着の時刻まであと数分、予定通りの旨を伝えようと携帯を取り出した。タップしようと指をかざした瞬間、日向専用の着信音が俺の掌を震わせた。

2015.2.14